【五輪金メダリスト連載】開催国の日本勢金メダリスト第1号~1964年東京五輪ウエイトリフティング・三宅義信

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

1964年東京五輪の金メダル第1号になれるのはこの男1人しかいない。


1964年東京五輪で、三宅義信はウエイトリフティング・フェザー級で金メダルを獲得した。これがアジア初・自国初開催の東京五輪で、日本勢初の金メダルとなった。

三宅の笑顔が日本中に希望をもたらしたと同時に、日本選手団にも追い風となり、結果日本は16個の金メダルを獲得することとなる。

金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。

 

 

実力が運を引き寄せる

東京2020オリンピック 開幕まであと10日、日本勢の金メダリスト第1号に期待が高まる。

日本人1億人の中で、東京五輪に出場できる人はもちろん一握りだが、金メダルを獲得できる人も一握り。ましてや、金メダルを一番初めに獲得できるのは、一握りではなく、たったの1人(1組or1チーム)なのだ。

大会日程の関係など、ただ努力すれば目指せるものでもない。これぞ運も実力のうちといったところか。

 

自国開催での金メダルに喜びがひとしおなのは、今も昔も同じだろう。

57年前の東京五輪では、開会式の2日後、10月12日に金メダリストが誕生した。

それがウエイトリフティング・フェザー級の三宅義信だ。

 

 柔道の世界からウエイトリフティングの世界へ

重量挙げへの架け橋となったのは柔道だった。

1939年に宮城県で9人兄弟の6番目に生まれ、中学時代は柔道に熱中した。

勝つために力をつけたいと考えた三宅は、近隣高校の重量挙部へ通い詰め、バーベルを使わせてもらっていた。

そのうちに重量挙げの面白さを知り、56年メルボルン五輪を機に転向を決意した。

当時高校2年生。8年後にオリンピックに出場し、金メダルを獲得するとは誰も思わなかったに違いない。

 

 金メダルへの思いを強くする

高校3年生で国民体育大会5位入賞を果たすなど、一瞬にして才能を開花させた三宅は、

重量挙げの名門・法政大学に進学した。そして大学3年生の時、60年ローマ五輪・男子バンダム級で初出場ながら銀メダルを獲得した。

 

大学卒業後は自衛隊体育学校に入り、62年世界選手権・男子バンタム級でも優勝を果たし、金メダルへの期待は高まっていた。

 

試合前日の10月11日、競技会場を訪れた三宅はあるものを目にする。実は重量挙げの競技会場である東京・旧渋谷公会堂(現LINE CUBE SHIBUYA)は、突貫工事で前日まで急ピッチで作業が続けられていたのだ。

戦後復興・自国で開催されることの喜びを噛み締めると共に、日本国中の頑張りに金メダルで答えたい、そう思いを強くした瞬間だった。

 

 世界記録を超えて金メダル獲得!

その熱い思いを力に変え、24歳の若武者は本番の9回すべての試技を成功させ、自身が持っていた世界記録を10キロ以上も更新して金メダルを獲得した。

2位との差は15キロ。圧勝だった。

68年メキシコシティー五輪で連覇、72年ミュンヘン五輪で4位入賞を果たした三宅は現在、東京国際大学ウエイトリフティング部監督を務める傍ら、自身もマスターズ大会などに出場している。

 

 めいっ子の活躍に期待!

そして言うまでもないが、三宅のめいに当たる三宅宏実が、東京五輪・重量挙げ女子49キロ級で金メダルを目指す。5大会連続出場で悲願の金メダルへ、弟の義行と二人三脚で頑張ってきた姪の活躍に、三宅も期待せずにはいられないだろう。

そしてそして何の因果か、重量挙げ女子49キロ級は開会式翌日の7月24日に行われ、メダルも確定するのだ。金メダル第1号も夢ではない。

そんな歴史的瞬間が見られるかもと心の中で楽しみにしつつ、選手たち全員を全力で応援したい。

 (mimiyori編集部)

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