バレーボール男子代表の絶対的エース・石川祐希にもコロナが牙をむいた。
12月9日、最高峰リーグイタリア・セリエAのミラノでプレーしている石川が、新型コロナウイルス検査で陽性の判定が出た。
日本よりも流行が深刻な状態にあるイタリアで生活しているならば、誰にでも可能性のあること。
そう分かっていても、危機的状況の中、ひたむきに努力し続けていたアスリートの悔しさはひとしおだろう。
しかし、必ず苦難を乗り越え、2021年夏、全日本代表として東京・有明アリーナで輝いてくれる。
そんなバレーボール全日本男子の栄光の歴史は、あの1972年ミュンヘン五輪から始まった。
創意工夫で新しい攻撃導入
8年前の1964年東京五輪以来、人気を博していた女子チームに比べ、男子チームは、64年東京五輪で銅メダル、68年メキシコシティ五輪で銀メダルと、成績も人気も今ひとつだった。
何とかミュンヘン五輪で金メダルを獲得し、バレー男子人気を生み出したい。
そこで着手した手段はアイデアと創意工夫、そしてメディア戦略だった。
「1人時間差」「Bクイック・Cクイック」「天井サーブ」「バックアタック」「フライングレシーブ」
どれも週刊少年ジャンプに連載されていた漫画「ハイキュー‼」では、大事な場面で戦略的に行われ、読者を興奮させてくれた。
今や世界標準となった、これらの革新的な攻撃を次々と持ち込んだのは、なんと50年前の、ミュンヘン五輪バレーボール全日本男子チーム。
新しい攻撃の開発に加え、選手を「ビック3」と名づけて育成するなど、技術の面でも広報面でも、攻撃的な戦略を立てた陰の立役者が、アイデアマン・松平康隆監督(当時)なのだ。
影の立役者 松平康隆監督とは
松平康隆は9人制バレーのセッターとして活躍し、1961年に現役を引退。
そこで松平が取った道は、ソ連へのコーチ留学だった。
というのも、当時の日本は世界の潮流に乗り遅れ、6人制バレーは未知の領域であった。
そこで6人制を学ぶため、当時最強であったソ連に1人降り立ったのだ。
今では、引退したプロスポーツ選手が、留学してコーチングを学んだり、大学に入って学問的な視点からスポーツを研究したり、は珍しくない。
だが当時は戦後15年、今のように自動通訳機能はなく、圧倒的な円安時代。
丸腰の状態でソビエト連邦に乗り込んだ苦労は想像するにたやすい。
しかし、苦労のかいあって、全日本男子6人制バレーは花開く。
松平は6人制バレーの先駆者であり、コーチ留学の先駆者でもあったのだ。
東京五輪でコーチを務めた松平は日本男子の銅メダルが決まった直後、全日本男子監督に就任した。
そこから始まった道程が、「ミュンヘン五輪で金メダル獲得」という8カ年計画だった。
その8年間、森田淳悟、大古誠司、横田忠義ら「ビック3」と共に、多種多様な攻撃を開発し、国交のない東ドイツとも何とか練習試合にこぎつけ、ライバルを研究し尽くした。
最大のライバル破り金メダル
そうして迎えた、72年ミュンヘン五輪。
準決勝のブルガリア戦では、第1、第2セットを失い、士気が下がっていくチームに、松平は「これから2時間コートに立てば、勝てるぞ」と激励した。
宣言通り、2時間戦い抜いたチームはフルセットの大接戦を制したのだった。
決勝では研究のかいあって、最大のライバルと目されていた東ドイツ相手に、3-1で勝利し、金メダルを獲得した。
この金メダルは単なる金メダルではない。
日本の団体球技では、男子で唯一の金メダルなのだ。
それほど世界の壁は今も昔も高いということ。
その壁を乗り越えてくれるであろう石川を始めとする「龍神NIPPON」に、エールを送りたい。
(mimiyori編集部)