2020年12月7日のIOCの理事会で、東京五輪で採用された「野球・ソフトボール」「空手」が24年パリ五輪では正式競技から外れることが正式に決定した。
各競技のプレーヤー、ファンにとって非常に残念な知らせだが、特にソフトボールに関しては思い入れのある人も多いのではないだろうか。
日本の金メダル142個を振り返る本連載、今回は08年北京五輪のソフトボールについて。
「江夏の21球」ならぬ「上野の413球」
2008年北京五輪、ソフトボール日本代表の金メダル獲得に日本中が歓喜した。
実は、その当時も翌大会では正式競技から外されることが決まっていた。
そして、日本に「最後の金メダル」をもたらしたチームの中でひときわ輝きを放っていた存在が、「上野の413球」として伝説を刻んだ上野由岐子だ。
ソフトボール日本代表は00年シドニー五輪で銀メダル、04年アテネ五輪で銅メダルと、2大会連続でメダルを獲得していた。
08年北京五輪では金メダルが期待されていたチームの大黒柱は、時速120キロの剛速球を武器とする、当時26歳の上野由岐子。ショートカットに爽やかな笑顔が映える”男前女子”は、世界最速右腕として各国から警戒される存在だった。
決勝で宿敵・米国と激突
最大のライバルは当時世界選手権6連覇中の米国。ソフトボールが五輪競技となった96年アトランタ五輪以来、3大会連続で金メダルと世界の頂点に君臨していた。
その宿敵との決勝戦、日本の先発は上野。エースが大事な一戦で先発するのはある意味当然。しかし、上野は前日、すでに常識を超える熱投を見せていた。
決勝前日の準決勝でも、日本は米国と戦っていた。上野はこの試合、延長戦を完投している。日本は惜しくも敗れてしまうが、この日の試合はまだ終わらない。なんと5時間後に3位決定戦の豪州戦があったのだ。
この試合も延長戦になったが、上野は再び完投し、今度は勝利してチームを決勝に導いた。2試合の球数は318を数えていた。
伝説となった決勝戦
エースは2日連続3試合目のマウンドに立った。肉体的な疲労は計り知れないが、それでも米国打線をゼロに抑えていった。打線も奮起し、3回表に1点を先制。4回表にはキャプテン山田恵里に一発が飛び出し、2-0とリードを広げた。
しかし4回裏、米国の主砲バストスのソロ本塁打で1点差に迫られた。
最大のヤマ場は6回裏。日本は1死満塁のピンチを迎えたが、上野は連続で内野フライに打ち取った。米国の反撃を断ち切り、3-1で勝利。三ゴロとなった上野の413球目が一塁手のグラブに収まった瞬間、日本の金メダルが決まった。
甲子園のヒーローたちと比較すると
「上野の413球」がどれほど規格外か、甲子園のヒーローたちと比較して確認してみよう。
こちらも高校野球の伝説である早稲田実(西東京)の「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹(現・北海道日本ハムファイターズ)。田中将大(現・ヤンキース)擁する駒大苫小牧(北海道)との決勝戦、翌日の再試合を完投した際に斎藤が投げた球数は296球だった。
甲子園で記憶に新しい名勝負は2018年、第100回大会での「金足旋風」だ。金足農(秋田)のエース吉田輝星(現・北海道日本ハムファイターズ)は決勝で大阪桐蔭(大阪)に敗れたものの、準決勝の日大三戦(東東京)と合わせて2日間で266球を投げた。
近年、高校野球では投手の球数制限が議論されている。多くの球数を投げることはそれほどの負担なのだ。300球近い球数は危険と隣り合わせの一方で、斎藤、吉田の投球は多くの人々に感動を与えた。
上野はそれを遥かに上回る413球を投げた。しかも、五輪という国民の期待を背負った舞台では精神的疲労も半端ではなかったはずだ。上野の投球のすごみは数字も証明している。
21年東京五輪出場も期待
東京五輪で再び「最後の金メダル」を目指すソフトボール日本チーム。
上野は20年11月に行われた東京五輪代表合宿にも参加している。現在38歳になった彼女だが、まだまだ衰えを知らない。今度はどんな伝説を見せてくれるのか、ソフトボール日本代表から目が離せない。
(mimiyori編集部 PN:権田卓也)