【連載「生きる理由」①】名声と汚名ー柔道金メダリスト・内柴正人氏が生き直す理由とは 前編

内柴正人

熊本県八代市の「つる乃湯」でマネジャーとして勤務する内柴正人氏。掃除から修理まで何でも挑戦中(写真:本人提供)

2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇し、14年に実刑判決を受けた内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーとして勤務している。

出所後は数年間の模索期間を経て18年からキルギス共和国の柔道総監督に。19年秋に帰国した後は、柔術と柔道の練習をしながら社会人として働き始めた。

 

名声と汚名、両方を知る金メダリストはすべてを失った。彼は今、いかに再び生き直そうとしているのか。

20年10月にはグラップリングのみの格闘技イベント「QUINTET(クインテット)」に出場した一方、本業の仕事にも悪戦苦闘しながら邁進している。

内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、第1回は「柔道選手になった理由、働く理由」について前編。 

 

 

 

 

人生が再び動き始めるには10年かかると思っていた

内柴正人

勤務している温浴施設。掃除は柔道時代から誰よりも丁寧(写真:本人提供)

今、僕は地元の熊本県のお風呂屋さんで働いています。この世から一度いなくなって10年ほどでしょうか。まず、いなくなる前に何となく「10年くらい(かかる)かなあ」とは思っていました。 

10歳で柔道を始めて、ずっと弱くて、県内では一番厳しい道場にたまたま入ってしまった僕。ビビりで、試合のたびに硬直して動けない3年間は柔道人生で一番苦しかった。結果、そこでは何一つ優勝はしておらず、思っていたことは

「今は身体が小さくて試合の時に緊張してしまうから勝てないけれど、大人になれば身体も大きくなって今のうちに鍛えておけば将来、井上康生に勝てるようになる」

なぜか確信していました。 

 

全然、身体は大きくならなかったけれど、タイトルだけ見れば井上くんよりもオリンピックタイトルは勝ててしまっているから、子どもの頃の目標設定とそれに対する練習量、内容等は的を射ていたのではないかな。

実際、日本一になるまでにそれからまた3年後なのですが、勝ったこともないのに頑張れるのは、本当に人生経験がなかっただけに、夢の中――「夢中」というやつですね。

なので、「夢中になれば、10年くらいは当たり前に世間から消えるだろうなあ」なんて思っていたので、「10年くらいかな」と半分腹をくくって半分諦めていました。

 

キルギス行きは柔術師匠の勧め

2019年の柔道世界選手権でキルギス代表の試合でコーチボックスに入る内柴氏

(写真:丸井 乙生)

 

 

 

だから、あれから10年経った今、あれをどうこうしようという気もなく、未来を切り開くための力を身につけようと頑張れるところを探した数年間がありました。その数年間で柔術に出合い、柔術関係からキルギスの柔道協会を紹介してもらい。

柔術を始めたばかりなのに、その師匠から「ウッチーは柔道に帰るべき」とわずか半年でキルギス共和国へ行かされたのでした。

 

キルギスでも、そこで出会った方々に、しかも日本人に、僕が受け持つ選手のスポンサーをしてもらったり。キルギス柔道を辞めて帰国する時には、僕の協会からもらっていた給料をそのまま払うからキルギスに残ってください、とまで言ってもらったことはうれしかったです。 

 

家族の気持ちを一つにするために柔道をしていた 

内柴正人

「内柴家」への思い入れは深い。だから、一番つらい思いをするかもしれない熊本に帰ってきた(写真:本人提供)

そんな中、なぜに風呂屋かというと、一つは僕の地元だからなんです。柔道をしていた時、小学生ですでに寮生活をしている時も「内柴家」というものを感じていました。

産みの母は僕が物心ついた時にはもういなくて、姉と兄は思春期を迎えた頃に母の方へ行ってしまい。僕も熱烈に実母からスカウトを受けてました。でも、心の中で「僕まで出ていったらお父さんが寂しくなる。だから、残る」と決めていました。

 

お父さんが寝ている時に目から涙が流れていました。それを見て、「悲しいのかなあ」なんて思ってしまうくらい、家庭内でいろいろあって家族で嫌い合ってるから、僕が柔道を頑張れば父が喜ぶ、兄ちゃんに負けないと思ったんです。

家族間で嫌い合う言葉を発する暇がないくらいに、「マサトの柔道の夢」――これに家族の思考を向けようと必死だったこともあり、熊本で仕事ができるならなんでも良かったのでした。

でも、履歴書を持って就職活動をする気にもなれず、普通に働けると思ってもおらず。

柔術したり海外へ行ってみたりしていました。

内柴正人

2017年秋、柔術を始めたばかりの内柴氏(写真:丸井 乙生)

 

 

 

そんな生活をする中で休みが取れれば、やっぱり実家に帰るのです。人生で柔道しかしてませんから、友達もそんなにおらず、帰省しても暇なので毎日、風呂屋に行ってから走りに行って、トレーニングをし、酒を飲んで寝る。 

この毎日の風呂屋で出会ったのが、今働いている風呂屋の社長です。 

 

働くことを世間が許してくれるのかを考えた

現在のマネジャー業は多岐にわたる(写真:本人提供)

最初は「おう、内柴。今、なんしよるんけ?」

そんな感じで話しかけられて。会うたびに「柔術を神奈川でしています」「キルギス共和国で柔道してるんですよ」だとか説明半分で世間話をしていて、その中で「困ったことがあれば言え!仕事は何でもある」なんて言ってくれていました。

(俺が世間で働けるのかな?)

(世間で働くことを世間が許すのかな?)

実家から近いから冗談で言ってくれているのだろうけれど、本当だったらありがたいなあ、なんて思いつつ、柔術したり海外の柔道のコーチをしたり、のらりくらりでした。

 

今でも柔術だけで生活ができるのならば、やりたいと強く思うのだけれど、勝っていった先に人の目を浴びなきゃいけないことがちょっぴり嫌でもあるんです。 

しかし、このままでは張り合いがない。練習したい、試合に出たい。そんな気持ちは今もうずうずしています。自分の柔道はどうでもいいのだけれど、機会があるたびにやってみる理由は父や母、今の奥さんが僕の柔道スタイルが大好きなんです。

柔道を辞めて風呂屋になると言い出した時はみんな、「なんで?」。疑問しかなかったです。全員一致で止められました。 

そのやり取りの中で「なんでだよ!普通に働くって言ってんのに、なんで喜ばないんだよ!」。言い合いもありました。そのくらいみんな僕の柔道が好き。大好きなのです。

 

キルギス共和国で指導していた頃の内柴氏。教え子たちからは「センセイ」と呼ばれた(写真:本人提供)

だからこそ、柔道を辞めて風呂屋になったのです。1つ目の理由は、ちゃんと社会人になりきること。

スポーツ選手が企業やスポンサーに支援してもらって活動を長く続けていると、世間の当たり前とは違う感覚になっていきます。その感覚を捨て、世間の感覚を学ぶには、貧乏して夢を見てスポーツを続けるのではなく、これまでの出会いによって食事や接待を受けて繰り広げられるビジネスでもなく。「地域にある普通の店で普通に仕事をすることにある」と思ってしまいました。

(つづく)

 

 

 

 

うちしば・まさと

1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に60キロ級で全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。

 

 

 

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