【プロ野球】新人たちに贈る金言 「正しい努力」にまい進せよ~土橋勝征

土橋 バット テーピング 日本刀 鍔

現役時代、土橋はバットにテーピングを何重にも巻き、まるで日本刀の鍔のようなストッパーをバットにつけていた。(写真:b0v0b / PIXTA)※写真はイメージ

20年10月26日にプロ野球ドラフト会議が行われ、12球団が“金の卵”たちとの交渉権を獲得した。

選手にとってドラフト指名はこれまでの努力と才能が認められた証だが、新たな厳しい競争のスタートでもある。

「正しい努力」なくしてプロでは生き残れない。

現役時代はいぶし銀と呼ばれ、現在はヤクルトでコーチとして若手を指導している土橋勝征の金言は、荒波に飛び込むルーキーたちの道標になる。

 

  

 

2位指名の高校スラッガーだったが…

千葉の印旛高(現・印旛明誠高)時代は超高校級のスラッガーとして名を馳せていた。甲子園出場の経験はなかったが、高校3年だった1986年ドラフトでヤクルトの2位指名を受ける。当然、周囲は力強い打撃を期待されての入団と見る。土橋本人もそのつもりでプロの門をくぐった。

 

しかし、いざ見渡してみると87年のヤクルトの打線の中軸には杉浦享、ホーナー、レオンが居座り、若手の広沢克己(現克実)、池山隆寛らも台頭していた。先輩たちの背中はあまりに遠く、18歳の土橋は自分が「何が間違ったか知らない」上位指名のただの新人であることを思い知らされた。

 

素直な心が役に立つ

 

80年代は2軍での下積み生活が続き、野村克也がヤクルト監督に就任した翌91年に転機が訪れる。「打てる右の外野手」を探していた野村が2軍戦を視察した際に活躍したことで、名将の目に留まった。当時は内野手だったが、すぐに外野手転向が決まった。

 

外野を守ることに抵抗はなく、92年春季キャンプで初めて経験した野村講座も、すべてノートに書き留めた。若者にとって野村の長く、重い話は難解だったことが予想されるが、土橋は「そうなんだ」「そういうふうにやらなきゃいけないんだ」といちいち素直に受け止め、実践しようと心がけた。

 

その結果、1軍で出場機会を増やしていった男は高校時代のようなスラッガーではなく、バットを短く持ち、右打ちを得意とする打者になっていた。20代前半ながら「いぶし銀」と呼ばれ、走攻守においてチームプレーに徹する“職人”と化したのだ。

 

正しい努力とはなんぞや

野村ヤクルトが初めて日本一に輝いた93年には準レギュラーとして活躍し、二塁手となっていた95年には129試合に出場して日本一。名将に「陰のMVP」と称賛された。そんな土橋がずっと大切にしてきた言葉の1つに、野村に授けられた「正しい努力」がある。

 

現役時代の土橋は「練習の虫」としても知られた。来る日も来る日も、全体練習より早く自主練習を行い、夜は1人で居残ってマシン打撃に汗を流した。それも、やみくもに打つのではなく、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら打つ。それこそが正しい努力なのだと自負している。

 

「漠然と黙々とやったって、何の役にも立たない。俺は『正しい努力』をそうとらえました」

 

 

自分の立ち位置に気づき、なすべき「正しい努力」を見つけて実行していくことこそが、プロで生き抜く真の方法なのだと教えられる。

 

詳細は『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』(宝島社)で。

 

(mimiyori編集部)

 

mimi-yori.com