現在は母校・拓大紅陵コーチ
日本の高校野球が本格的に動き始めた。20年は戦後初めて春夏の甲子園大会が中止となり、コロナ禍で練習すらできない日々が長期間続いたが、7月8日にはセンバツ出場を予定していた32校による甲子園交流試合の組み合わせが決定。各都道府県大会が7月から始まることもあり、全国の高校野球部が再び練習に本腰を入れている。
拓大紅陵高で20年から非常勤コーチを務める飯田哲也も、母校の練習再開を喜んでいる。高校野球が球児の人生に与える影響の大きさを知っているからだろう。飯田は、同校2年の時に外野手から捕手に転向。小柄で中学時代まではまったくの無名選手だったが、1986年のドラフト当時は捕手が手薄だったヤクルトの4位指名を受けた。
捕手になっていなければプロ入りできたかわからない、と振り返っているが、そのヤクルトでは90年から監督に就任した野村克也のもとで捕手→二塁手→外野手に転向。俊足、強肩、巧打を誇る名選手に成長した。
「勝負をかけるときは自分の考えを出せ」
本書では、野村に未経験だった二塁手への突然の転向を言い渡され、戸惑いながらも実践したことや、脇役に徹するよう何度も諭されたことなどを語っている。
また、印象に残っている言葉の1つに「勝負をかけるときは自分の考えを出せ」がある。セ・リーグを代表する外野手になってからも褒められたことがほとんどなく、ミスをすれば「根拠を言え」と叱られ続けたという飯田だが、この環境にいたからこそ、自分の頭で考え、状況に応じた直感が磨かれた。
その集大成が、93年日本シリーズで見せた「奇跡のバックホーム」だったと思い知らされる。
野村監督に引導を渡された
名脇役・飯田哲也を誕生させたのがヤクルト・野村監督なら、引退させたのは楽天・野村監督だった。
飯田は、楽天で恩師と再び同じユニホームでプレーしていた06年限りで現役引退した。その後は「教えてもらったことを伝えています」。プロ野球でも高校野球でも、地道に「ノムラの教え」を指導し続けている。
野村に手渡された引導が、飯田にとっての新たなステージへの入り口だったと思うと泣けてくる。
(mimiyori編集部)