【プロ野球】川崎憲次郎がノムさんと目指す人生100勝

明治神宮野球場

明治神宮野球場(写真:photoAC/流浪のマサじぃ)

巨人の菅野智之が20年10月6日にプロ通算100勝を達成した。一方で、才能に恵まれながら100勝に満たずユニホームを脱いだエースも過去には大勢いる。90年代にヤクルトで活躍し、沢村賞、最多勝利投手などのタイトルを誇った川崎憲次郎は、88勝81敗2セーブの成績で04年に現役引退した。現在は、20年2月に84歳で亡くなった恩師、野村克也氏の教えを糧に“人生の100勝”を目指している。

 

 

 

決まり文句は「自分の未熟さです」

確実にエースになれる逸材だった。ヤクルトの監督に就任した野村も早くから見抜いていた。だからこそ、川崎は来る日も来る日も怒られた。「制球が悪い」「何で本塁打を打たれたんだ」「何であんな球を投げたんだ」。49歳になった今でこそ野村の説教は懐かしく、胸に染み入りさえするが、当時はまだ19歳。理詰めでくる小言に対応するため、困った時には「自分の未熟さです」と返事する決まり文句を用意していた。

 

伝説の日本シリーズMVP

 

大分・津久見高校から88年ドラフト1位でヤクルトに入団。高卒新人ながら翌89年には4勝を挙げ、90年に監督となった野村と出会う。同年は10代ながらローテーションの一角を担い、投球回は200イニングを超えた。その90年から2年連続で2桁勝利を達成。92年は右ひじの故障のため1軍での登板がなかったが、93年には再び10勝をマークしてカムバック賞を獲得し、同年日本シリーズではMVPに輝いた。

 

野球人生を変えた「カミソリシュート」

 

球界トップクラスの投手として認められた川崎だが、右ひじの違和感は常に悩みのタネだった。94年以降は故障の影響で鳴かず飛ばず。野村には「シュートを覚えなさい」と言われ続けていたが、「シュートはひじを痛める」という野球界の定説から踏み切れずにいた。自分は、変化球ではなく直球で三振を取る投手、というプライドも邪魔した。しかし、96年に0勝で終わったのを機に、川崎は「変化」を受け入れた。

 

新たな兵器は「カミソリシュート」と呼ばれた。右打者の内角に食い込む球種が増えたことで、投球は劇的に飛躍した。98年には17勝を挙げて、最多勝利投手と沢村賞をダブル受賞。2000年までに巨人戦では当時現役最多の29勝をマークし、「現役最強のGキラー」として名をはせた。そのGキラーとしての投球を期待されて01年には同じセ・リーグの中日に移籍したが、右肩の故障が致命傷となって3年間未勝利。ヤクルト時代に記録した88勝のまま、04年にひっそりと引退している。

 

「野村野球」は第二の人生の教科書

90年代のヤクルトに在籍した選手であれば必ず書かされていた「野村の野球ノート」は、現役時代より今の方が役立っているという。野球を卒業し、まもなく50歳を迎える第二の人生をより充実させるために、かつて必死に書き殴っていたノートから3つの文言を拾い出した。

 

「初めてのことをやってみる」

「知らない人に話しかけてみる」

「古いものにしがみつかない」

 

いずれも、変化を恐れてはいけないことを諭す言葉だ。20代の自分は変化を恐れてすぐにシュートの習得に乗り出さなかったが、実際に習得してからは野球人生が好転した。積極的な変化がもたらす効能は今となってよく理解できる。

 

変化を恐れずに突き進む

 

現役時代、野村には怒られてばかりで、褒められたことは一度もないという。20代のうちに「野村の野球」に真摯に取り組めず、100勝できなかった後悔がある。現在は、野球解説者として活動するかたわら、地元である大分県の魅力を伝えるPR活動も精力的に行っている。いつかは球団や企業のオーナーになることが大きな夢。天国で見守っているであろう野村にいつか褒めてもらうためにも、変化を恐れずに突き進んでいる。

 

詳細は『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』(宝島社)で。

(mimiyori編集部)