【経営哲学】いきなり!ステーキ 一瀬邦夫社長 ピンチの後にチャンスあり!②

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(写真はイメージ photoAC/かずなり777)

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。今回は「いきなり!ステーキ」を運営する株式会社ペッパーフードサービス・一瀬邦夫社長について紹介する。

手軽に厚切りステーキを堪能できる「いきなり!ステーキ」が窮地に立たされている。2013年の1号店オープンから3年足らずで100店舗達成、17年から19年11月までには店舗数を4倍に増やしたが、既存店売上高は18年に急降下。20年1月までに、全体の1割に当たる44店舗が閉店することを発表した。創業者の一瀬邦夫社長にとっては正念場だが、同社長の“出店しすぎてピンチ”はこれが初めてではない。数々の難題に向き合ってきたステーキ人生をのぞいてみると、今回も逆境をはねのけてしまうような気がしてくる。

 

 

 

給与カットも従業員辞めず

妻が遺した3000万円をすべて会社に投入してしまった際、ふと自分はいったい何をしているのかと気づいた。最初の夢は、4階建ての自社ビルを建て、1、2階が店、3、4階に住まいがあれば、それでよかったはず。「大きくしようと思っていなかったんです」。大きく育ってしまった会社を前に、「従業員は叱られても辞めない」ということにも気づき、社員教育に力を入れていくことを決意した。  

まずは全従業員に対して給与の15%カットを宣言。反発は出たが、「辞めてもいい。でも、下げなければ会社はつぶれる」として方針を曲げなかった。結局、この時に従業員は1人も辞めなかった。初めて「コックではなく、経営者としての自覚が生まれた」という。

「従業員が辞める時。それは、この会社にいてもいいのかなと疑問に思った時に辞めるんです」

“コックレス”システム開発で成功

  94年、一瀬は低価格ステーキ店「ペッパーランチ」をスタートさせる。大手チェーンに対抗するため「低価格で勝負するなら、独自のシステムを開発しなければならない」という結論から、「電磁調理器」と「鉄皿・受け台」という2つの製品(特許取得)が誕生。これらを軸とした「ペッパーランチ」のビジネスモデルが生まれた。

電磁調理器の鉄板に、故アキ子夫人は薄切り肉とごはんを乗せて夕食にしていた。醤油とペッパー(胡椒)を混ぜながら焼いてみたところ、なんともおいしい「ビーフペッパーライス」が完成。これが、同店の看板メニューとなった。

「ペッパーランチ」では、肉を調理するのはもっぱら客の仕事。260度の鉄板に乗せた牛肉は客の目の前でみるみるうちにいい加減に焼けていく。客は、ジュウジュウと焼ける音を確かめつつ、頃合いを見計らって肉を食べる。コック不要のこのシステムで、ステーキは1000円を切り、大手レストランチェーンでも太刀打ちできない680円まで下がった。コックレスを推進した理由は、「人はそう簡単には育たない。ならばシステムを作ること」と考えたから。フランチャイズ1号店は大船で誕生し、初日は500人分のステーキを作るという盛況ぶりだった。「ペッパーランチ」は直営店がないうちにFC店が誕生するという逆転現象となった。

また出店しすぎてピンチ

  その大船店のオープン3カ月後に、直営店として浅草に出店。月商600万円を打ち上げるようになり、その後、墨田区だけで1年のうちに8店舗を出店した。しかし、従業員の教育が追い付かないまま出店を決行し続けたために売り上げが低迷。一瀬は、自身の高級車シーマを売却し、約20万円の中古車に乗り換えて苦境を脱しようとした。また、不振の直営店を社内FCに切り替えたことで、やる気のある社員が次々と名乗りを挙げた。この再生で、ペッパーランチは全国へと広がっていった。

張り紙作戦

  01年9月、日本でもBSE(狂牛病)騒動が起こる。当時は瞬く間に客足が遠のき、各店舗ともに売り上げが大きく低迷した。すでに50店舗を超え、この年さらに40店舗の新出店を予定していたペッパーランチにとっては痛すぎるダメージとなった。

このピンチを打開すべく、社内では豚と鶏肉を扱うべきだという意見もあったが、一瀬はラジオ出演時に「牛肉一筋」を明言してしまった。そこで、他の打開策を熟考した結果、一瀬自ら文面を考えた張り紙「お願い 助けてください このままでは本当に困ります 美味しく安心な米国産のお肉です 食べに来てください 頑張ります 店長」を各店舗の入口に貼った。19年12月、「社長からのお願い」として来店を呼び掛ける張り紙を出したが、前例があったのだ。
当時は一瀬自ら店舗を回り、さらに幹部が手分けして各店舗へ配布した張り紙効果は大きかった。翌日、新聞記者が取材に訪れ、好意的な記事で紹介してくれたことで従業員の頑張りが広く知られることに。翌10月、国から安全宣言が出されたことで、各店舗の売り上げは回復していった。
(③につづく=mimiyori編集部)

 

 

 

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