ミスタードラゴンズが天国へと旅立った。中日の名手として知られ、2度の監督を務めた高木守道氏が20年1月17日、急性心不全のため78歳で亡くなった。
ユニホームを脱げば優しく穏やかな好々爺。現役時代から口数が少なかったことから「むっつりえもん」などとも呼ばれたが、野球になるととにかくひたむきで、闘将・星野仙一もびっくりの瞬間湯沸かし器的な短気な一面もあった。
オールドファンに愛され、バックトス、10・8など数々のキーワードを残した男の事件簿を元ドラゴンズ番記者が2回にわたって紹介する。
Vパレードの夜にミスターに謝罪
1974年10月14日。名古屋では巨人のV10を阻み、20年ぶりのリーグ優勝を果たした中日ナインの優勝パレードが盛大に行われた。そして東京では巨人の長嶋茂雄が、目頭を押さえながら後楽園でファンに現役生活の別れを告げていた。
本来は前日13日に予定されていた巨人―中日のシーズン最終戦が雨のため順延となり、中日のパレードと長嶋の引退試合が重なってしまった。「主力はパレード参加。巨人戦は若手主体」が球団方針。高木はパレードの日程変更を球団に訴えたが受け入れられず、それなら「せめて自分だけでも東京に」と願い出たが、これも退けられた。
県岐阜商で出会った長嶋は、プロに入ってからも高木にとって特別な存在であり続けた。相手は宿敵・巨人の4番打者。高校時代のように指導を受けることはなかったが、「ファンを魅了する」というプロとしての進むべき道を指し示してくれた人物が長嶋だと思っていた。だから、パレードから戻った高木は長嶋に電話をした。「引退試合に出場できなくて、すみません」と頭を下げた。
2度の頭部死球も…堀内を救う
巨人の堀内恒夫と高木には浅からぬ因縁がある。名手として知られる高木だが、打者としても通算2274安打の名球会会員。「あれがなかったら、2500安打は軽く打っていたのでは」と堀内は言う。
「あれ」とは堀内からの死球。現役時代の対戦で剛速球が2度、高木の頭部を直撃した。1度目は1968年5月28日の後楽園。左肩に当たった球が左耳に当たり、その場に倒れた高木は入院した。2度目は71年9月2日の中日スタヂアム。再び頭部に受けて倒れた高木は、起き上がりざまにヘルメットを投げつけた。
堀内は小学生の時に右の人差し指を機械に挟んで1センチほど切断している。カーブを投げる時に球がうまく抜け、大きな曲がりにつながったが、まっすぐでも指の引っ掛かりが悪く抜ける時があった。2度目の死球の試合後、堀内は菓子折りを持って名古屋市内の高木の自宅を訪れた。患部を冷やしていた高木に「すみません」と謝ると、「いいんだ。おまえは抜けるピッチャーだから、しょうがないよ」と言われた。「名を残すような打者は、こういうことを言ってくれるのかと。投手として本当に助かった」と堀内。高木の思いやりが、抜け癖から投げることを恐れたかもしれないライバルを救った。
日系米国人にバックトスを学ぶ
高木の代名詞といえば「バックトス」。日本では草分けと言える、この名人芸を覚えたきっかけはプロ3年目の1962年だった。
同年、日系米国人のカールトン半田が南海から中日に移籍。米国仕込みのプレーには派手さとスピードがあり、高木はすぐに飛びついた。カールトン半田に教えを請い、全体練習前に必死に単独練習した。壁にボールを当てて捕り、二塁ベースに見立てた場所にはティー打撃用のネットを置いて1人で投げ続け、数年かけて習得した。当時、二遊間を組んでいた一枝修平によると、練習量は1日200~300球に及んだ。
伝説の10・8 敗戦翌朝にゴルフ
1994年10月8日のシーズン最終戦。最大10・5ゲーム差を詰め、中日か巨人か、勝った方が優勝という究極の大一番が実現した。巨人の長嶋監督いわく「国民的行事」。地元の中日が有利とみられていたが、激闘の末、高木が率いた中日は敗れた。
槙原、斎藤、桑田と投手をつないだ巨人に対し、中日はエースの今中から山田、佐藤、野中と普段通りの野球を貫いた。後年、高木は「巨人はローテーション投手をつぎ込んだのに、こっちは普通に投げさせとるんだから、ファンからすれば何だ、となる。山本昌だって、郭源治だって残っていた。だから、やろうと思えば巨人のようにやれた」と後悔していたことを口にしている。
伝説の試合後、高木は悔しさから眠れなかったのだろう。翌9日朝の午前5時に当時の外野守備コーチだった谷木恭平に電話し、「ゴルフへ行こう」。まだオープン前だった岐阜県内のゴルフ場で早朝からラウンドしていたという。
(おわり=mimiyori編集部)
高木守道(たかぎ・もりみち)
1941(昭和16)年7月17日、岐阜市生まれ。右投げ右打ち。県岐阜商から60年に中日入団。同年5月7日の大洋戦で初打席初本塁打デビュー。63年に50盗塁をマークして盗塁王となり、以降は65年、73年と3度の盗塁王に輝いた。77年の4打席連続本塁打はプロ野球タイ記録。二塁手としてベストナイン7度、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)3度。80年に現役引退。通算2282試合、2274安打、369盗塁。92年に中日監督に就任し、95年まで指揮を執ったがシーズン途中に辞任。12-13年に再び中日監督を務めた。06年に野球殿堂入り。