【経営哲学】ピザーラ創業者 淺野秀則会長①押し寄せる不幸、不運を乗り越えて

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(写真:photoAC)※写真はイメージ

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。

 

誰もが一度はお世話になったことがある宅配ピザ店「ピザーラ」。創業者・淺野秀則会長は1980年代によそいきの食事だったピザを各家庭で気軽に食べられるようにした先駆者だ。

イタリアンを大流行させたように、その生い立ちもオシャレ。100年超の紙器メーカー社長の3代目御曹司に生まれて慶應ボーイ、さらに大学時代から事業を起こすなど華麗な経歴を誇る……はずだったが、御曹司→貧乏→起業→大やけど→そしてまだまだ、という人生ジェットコースターを味わいながらピザーラを成功に導いた。

第1回は、イケメン御曹司に押し寄せた不幸、不運の連続エピソードについて。

 

 

 

御曹司から貧乏一直線

ジェットコースターのスタートは富裕層から始まった。父は100年超の歴史を誇る紙器メーカーの社長。東京・目白に会社を構え、牛乳キャップ、紙コップ、紙皿などを製造する会社だった。淺野はその3代目御曹司であり、いわゆるボンボンだった。

「勉強しなくていいぞ」
「将来は社長になるんだから、人を使うことだけ覚えなさい」

そう言われて育ったことで、本当に勉強しなかったという。

しかし、高2の時に当時42歳だった父が倒れ、親族に会社を奪われた。富裕層だったはずが一転、貧乏暮らしに真っ逆さま。1度目の人生急降下を味わった。

学生起業で上昇気流に

  一家の大黒柱を失った淺野は、母が都内で始めた麻雀店を手伝うようになった。知恵を絞りながら徐々に集客に成功すると、商売の面白さに気づいた。

慶応大進学後は、自分で旅行代理店のような事業を開始した。きっかけは、なけなしのお金をかき集めて向かった、人生初めての海外旅行だ。ハワイをすっかり気に入り「旅行代理店をやれば、引率者としてまた行ける」と考えた。

自分が通う慶応大だけでなく、早大、日大など他大学にも声をかけた。各大学にリーダーを配置して「客になる学生を10人集めたら、引率者として旅費はタダ」というシステムを構築。最盛期500~600人を扱うまでに成長した。

ピザにたどり着くまで紆余曲折を経るが、この時期に「支部制」をつくりあげた経験がのちのピザーラの営業形態モデルとなったという。 

全身やけどで1年半 包帯ぐるぐる巻き

  大学卒業後は社会勉強としてベンチャー企業に就職したが、大学時代に”事業”を起こした淺野が人に使われることに甘んじるはずもなく、たった3カ月で退職した。

次なる一手はやはり起業。「インフィニティ」という名前のクラブハウスを始めたが、オープン10日目に全身大やけどを負う事故に見舞われた。

揚げ物をしていたところ鍋から発火し、その鍋を床に落として炎上。「火災保険に入るのを忘れてたんです」。服を脱ぎ捨てて消火したものの、やけどは肺にまで達していた。

九死に一生を得たが、やけどのレベルは重傷の「Ⅲ度」。植皮手術で300針縫い、1年半もの間ほぼ包帯ぐるぐる巻きで療養生活を送った。せっかくオープンした店も、閉店するしかなかった。

ここまでくれば大抵は運が向いてくるはずだが、淺野のジェットコースターはまだ下り坂だった。

早すぎたウーロン茶

  今でこそ当たり前に売られているウーロン茶だが、着目した時期が早すぎた。

大やけどが癒えた後、新しい飲み物としてウーロン茶の輸入販売を始めたが、まだ誰もその存在を知らない時代だったため、まったくと言っていいほど売れなかった。

父が倒れた時、大やけどを負った時より何よりも、この時期が最も貧乏だったという。 人生のどん底を味わったが、なんとまだ苦労は続くのだった。

(第2回へ続く=mimiyori編集部)

  

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