これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。
名代富士そばの創業者である丹道夫会長の経営哲学は、壮絶な人生経験に裏打ちされている。
3度の上京失敗から、継父のいじめ、丁稚奉公や南京虫の襲撃、電車間違いで始まった炭鉱勤務まで。月給500万円の不動産業を投げうち、立ち食いそば屋を成功させる土台となったのは「愛があって、苦労を与えないといけない」という強い信念だった。
継父のいじめで「平等」を意識
母親の故郷である愛媛県西条市で育った。事業家だった実父は誕生後すぐに亡くなったため、記憶はない。
芸者だった母は息子に教育を受けさせたいと再婚したが、継父は、母との結婚後に生まれた弟ばかりをかわいがり、次第に自分への風当たりを強めていった。
現代であれば、虐待と疑われかねない仕打ちに、幼心にも「みんな平等じゃないといけない」と日々思っていたという。
中古自転車で挫折 丁稚奉公は転々
中学卒業後は西条市内の高校に進学したが、1年生の1学期に通っただけで中退。その理由が、通学のために中古の自転車を買ったが、全然前に進まず、体力的に無理だと判断したからだった。
16歳の秋からは同市内で丁稚奉公を始める。初めは青果店の丁稚だったが、1人で店番していることがつらくなって、わずか半年で油屋に転職。その油屋も1年3カ月で退職してしまった。
知人に誘われながら時々仕事をするという不安定な生活を続けていた中、ふと「東京で一旗揚げよう」と思い立つ。
上京挑戦も失敗
実際に上京するまではよかったが、ここからも失敗を繰り返す。
はじめからそば店を志していたわけではない。1回目は、反物卸問屋に働き口があると聞いて面接を受けたが、結果は不採用。愛媛に戻り、地元の村で自動三輪車を運転する仕事に就く。
電車を乗り間違えて炭鉱勤務
再び、職を求めて上京したが、まったく予定していなかった福島での炭鉱で勤務することになった。
きっかけは、「電車を間違えたこと」。
到着した東京駅で出口が4カ所もあって立ちすくんだことが珍道中の始まりだった。その様子を見ていた見知らぬお姉さんに「困ったら連絡しておいで」と電話番号を渡されたが、その日は混乱したまま行動を起こせず、上野の西郷隆盛像前のベンチで1泊。翌朝、上野駅で駅員に電話番号を見せると、「これは大宮の番号だよ」と教えられ、大宮へ行くことを決意して電車に乗り込んだ。
ところが、誤って行先の違う常磐線に乗っていたため、いつまでたっても大宮に到着しない。
仕方なく温泉地の湯本で下車して1泊し、翌日、目の前の張り紙で働き手を募集していた炭鉱に応募した。
この炭鉱では、刺青を入れた男たちや、男の取り合いでケンカする女性など、さまざま人生模様を目撃する。
その後、福島を離れて東京の印刷所で働いたが、住み込み先で南京虫に毎晩襲われ続けた結果、倒れて帰郷した。
4度目でようやく定住
西条高校に通い、3度目の上京を目指す。今度は栄養学校を卒業して、都内の病院で栄養士になったが、1年3カ月で退職した。
継父が病気になり、愛媛に帰らざるをえなかった。帰郷後は、自宅を利用して料理教室を開講した。
26歳の時の4度目の上京で、ようやく定住に成功する。ちょうど高度経済成長期で、工場で働く人向けの食品会社(弁当屋)に勤務した。
ところが、同僚の独立騒動に巻き込まれて退社することになる。その仲間とともに独立して弁当店を開業。こちらは2年ほどで成功を収めた。
(②につづく)