「侍独特のヘアスタイル」というだけでなく、実は実用的な意味があったのだという。
なぜ、わざわざ髪を剃って月代(さかやき)にしたのか。なぜ、ちょんまげを作って涼しくしなければならなかったのか。ちょんまげとクールビズの関係には、さまざまな疑問がある。一体、どのような経緯でちょんまげが誕生したのか。
まげは冠位十二階制で登場
まげが広く普及したのは飛鳥時代。冠位十二階制の導入により官吏は冠をかぶることになった。
冠位十二階は、日本で最初の冠位制度。冠名は徳・仁・礼・信・義・智で、大・小に分けた12階。各階に紫・青・赤・黄・白・黒の色を定めた。
冠位を与えられ、冠をかぶるようになった人々は適した髪型として、髪を頭頂部に結い上げる「まげ」が広まったという。
冠は後ろの部分が縦に細長くなっていて、まげがきちんと収まるようになっている。当時、人前でまげをさらすことは恥ずかしいとされていたが、冠をかぶることによって、まげを隠すことができた。
この頃はまだ、月代やちょんまげはみられない。
戦が始まり まげが邪魔に
時代は進み、平安時代。まげの扱い方に変化が出てきた。
平安前期になると前九年、後三年の役など、戦が始まった。戦となれば、鎧を身にまとい、頭にはカブトをかぶる。
カブトをかぶれば、まげが邪魔になったはず… この時、まげはどうしていたのか。
実は、古いカブトには頭頂部に「八幡座」という直径約5センチの穴が開いていた。烏帽子をかぶった上からカブトをかぶり、その穴からまげを包んだ烏帽子を出していたのだ。
しかし、不幸なことにこの穴から烏帽子を出すことで矢が刺さることもあったという。すぐに八幡座の穴は小さくなり、換気が出来る程度に変化していった。
蒸れる、のぼせる… 「ちょんまげ」誕生
鎌倉時代が近づくにつれ、まげはついに形を変える。平安末期から鎌倉時代は戦が増えていった。日本の歴史上の髪形を紹介した「日本結髪全史(江馬務著、創元社)」によると、烏帽子をかぶったままの人々は、頭が蒸れたり、合戦中にのぼせたりしていたと考えられるという。
そこで、八幡座の穴をさらに小さくして、自分の髪の一部を剃るようになった。時代考証のバイブル「守貞漫稿(喜田川守貞著)」男扮編によると、「月代のこと古書に見る始は玉海云安元二年七月建春門院崩御の記に時忠卿自件簾中出首注曰其鬢不正月代太見苦顔色特損云々」とあり、月代の始まりは、平安~鎌倉期の貴族・九条兼実の日記「玉葉(ぎょくよう)」という文献にある。
義経にも月代
「玉葉」の安元2(1176)年の記述に、平時忠(平清盛の義弟)について「自件簾中、時忠卿指出首、其鬢不正、月代太見苦、面色殊損」とある。(時忠の髪の毛が乱れ、月代も見苦しく顔色も悪い、の意)。よって、平安末期には月代が誕生していた。かの有名な源義経とされる肖像画にも、しっかりと月代がある。
残った髪を結い上げると、頭の上にちょんと乗ったまげができあがる。「ちょんまげ」の誕生だ。「ちょんまげ」という名前は、まげのカタチが「ゝ」に似ていることからきている。ちなみに「日本結髪全史」によると、戦国時代は常に月代だったという。また、月代が始まった時期について、「北条執権時代に始めた」「ハゲねずみと言われた明智光秀が始めた」という説が誤りであることも指摘している。
19年夏は猛暑~もしかして2020年は…
今や夏の定番ともいえるクールビズ。しかし、半袖、軽装、ネクタイを外すなど、どんな対策を講じても猛暑のレベルは年々上がるばかりで、暑さ対策はキリがない。衣類で調整できなくなったら、髪をいじって暑さをしのぐしかない?
(mimiyori編集部)