【ビジネス】経営哲学=富士そばを一代で築いた会長の七転八起人生②

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写真はイメージ=iStock

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。



名代富士そばの創業者である丹道夫会長の経営哲学は、壮絶な人生経験に裏打ちされている。3度の上京失敗から、継父のいじめ、丁稚奉公や南京虫の襲撃、電車間違いで始まった炭鉱勤務まで。月給500万円の不動産業を投げうち、立ち食いそば屋を成功させる土台となったのは「愛があって、苦労を与えないといけない」という強い信念だった。
(カバー写真はイメージ)

 

 

 

不動産業で月給500万円

弁当屋が軌道に乗った頃、今度は「不動産業を始めないか」という話が舞い込んできた。
そこで不動産会社を起業し、知人とともに那須の別荘地で土地を売るようになった。
はじめはまったく売れず、倒産寸前まで追い込まれたが、当時は田中角栄の列島改造論の影響で土地が売れる時代。V字回復で飛ぶように売れるようになった。

今から約50年前、一時期の月給は500万円を超えた。知人と始めた企業が8年後には社員が1000人を超え、“我が世の春”を謳歌した。
貧乏時代とは一転、今度はお金が余るようになって、毎晩のように赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」へ。デヴィ夫人がホステスとして働いていたことで知られる伝説のクラブに通った時代を「夫人はバラが咲いたような顔をしてきれいだったね」と懐かしむ。  

 

好調がいつまでも続くわけがない

そんな豪遊生活にも飽きて旅行をしていた際、東北の駅の軒下で、1人でそば屋を切り盛りするおばあさんを見かけた。
電車に乗る前に、客が駆け込んでくる繁盛店。忙しい商売だな、と思うと同時に、東京でも売れるのではないかと思いついた。
不動産業の好調がいつまでも続くわけがない、絶頂の時にこそ次の手を打たないと、と考えていた矢先の出会い。会社の役員、社員たちが生活できるようにしておきたいと、立ち食いそば店を始めることを社に提案した。 

 

渋谷で1杯40円の立ち食いそば店

1966年、富士そばの原点となる立ち食いそば店を渋谷でスタート。本業の不動産業は部下らに任せ、新宿、池袋、西荻窪などにも出店した。
1杯40円のそばは、4.5坪の小さな店で1日900食も出るほど、初めから売れに売れた。
この商売のおもしろさに魅かれて、72年には「ダイタンフード株式会社」を設立して独立。富士そばの経営に専念した。 

 

富士そば内で自由競争

100店舗以上ある富士そばは、運営会社が6つに分かれている。
ひとつの会社で約20店舗が任され、それぞれ常務1人を置いて経営を担わせている。
また、渋谷区内だけで11店舗ほどあるが、それぞれ運営会社は別。各社に自由競争をさせているため、経営は活性化され、富士そば全体の売り上げに大きく貢献している。
メニューも、基本の「かけそば」と「ざるそば」は全店舗共通で扱うが、他は各店舗の自由。店長や店員のアイデアで、店独自のメニューが生まれることもある。 

 

立地が命

立ち食いそば店の“命”は立地にある。
富士そばはサラリーマンの通行が多い場所を狙っているため、駅前の一等地や繁華街の店が多い。
「ここに出店しませんか」と誘われて、丹自ら下見に行くことがあるが、ほとんどの場合が1、2秒で「ダメ!」。業界内では「秒殺」と言われる。
やみくもに数を出店するのではなく、いい物件があれば店を出す。この方針は徹底しているため、現在駅前に確保している100店舗は、そば屋をやめて他の商売に転換しても活用できる自信がある。 

 

アルバイトにもボーナスの理由

富士そばは、アルバイトやパート社員に対してもボーナスや退職金、有給休暇などが与えられることで知られる。従業員は資産。従業員に満足のいく金額を支払えば、辞めずに気持ちよく働き続けてくれる。
売り上げを増やせば、自分たちに返ってくるとわかるから、丹が何も言わずとも、なんとかして売ろうと努力するようになる。

「僕は普通だと思っているんです。人を安く使うなんてありえない。安く使うと加減するんです。僕は16、17歳で気づかされた。人間は平等」
「(ブラック企業は)かわいそうなことをするもんです。人間はみんなおいしいものを食べたいし、きれいなものを着たいと思うもの」

(③に続く)  

 

 

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