【経営哲学】富士そばを一代で築いた会長の七転八起人生③「好き」と「得意」は違う

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写真はイメージ=iStock

 

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。



名代富士そばの創業者である丹道夫会長の経営哲学は、壮絶な人生経験に裏打ちされている。
3度の上京失敗から、継父のいじめ、丁稚奉公や南京虫の襲撃、電車間違いで始まった炭鉱勤務まで。月給500万円の不動産業を投げうち、立ち食いそば屋を成功させる土台となったのは「愛があって、苦労を与えないといけない」という強い信念だった。

 

 

  

実はプロの作詞家

丹には、「丹まさと」のペンネームで作詞家としての顔もある。
つんく♂の曲に歌詞をつけ、五木ひろしや天童よしみにも詞を提供している立派なプロの作詞家なのだ。
「作詞は楽しい。夢の世界です」
作り上げた詞は1000編に達した。

きっかけは、愛媛で丁稚奉公をしていた17歳の頃。ラジオから流れていた演歌が心に染み、「こういう詞が書きたい」と思った。
ただ、上京してからは弁当店や不動産業、富士そばの経営で忙しく、作詞をやりたくてもできなかった。

富士そばの経営が安定した55歳の時に、六本木にある作詞学校に通い始めた。
作詞活動は、主に仕事の空き時間や電車での移動中などに進めている。
富士そばの各店舗で演歌を流しているのも、自分が大きな影響を受けたから。
食べ終わっても歌を聞いている人が多いと店員からよく聞かされ、演歌をやめてはいけないと確信している。 

 

超健康オタク

大勢の社員を抱える経営者として、自分の健康管理にはとにかく厳しい。青年時代までは虚弱体質で、病気や手術を繰り返してきたからだ。


毎朝の日課は腹筋20回。朝食はバナナ1本のみで、昼食は食べない。
夜の接待では付き合いで余分に食べなければいけないことを考慮して、普段から粗食を徹底している。
腹は常に八分目。タバコは一切吸わない。このような生活は30代から続けている。

40代の時には100日間にも及ぶ“断食修行”を行ったことがある。
修行中は毎朝6時に起床して20キロのランニング。その後に梅干し1つを食べて、お茶を飲んだ。あとは午後3時に大豆ハンバーグを口にするだけ。


「とにかく超人的に健康な人間になりたかった」


一度ハマってしまえば、粘り強くやり続ける持続力を自身の真骨頂としている。

ラジオ体操歴は30年。ゴルフは80歳を過ぎてから、コツがわかってきたという。ゴルフ雑誌に掲載されていたプロセス写真を切り取ってイメージトレーニングを行い、ゴルフ練習場に1年間通い詰めて、飛距離が200ヤードを超えるようになった。


そんな丹が次世代に伝えたい、残したい言葉とは。 

 

「自分の得意分野で生きること」

得意=好きではない。好きなことで成功するというのは不可能に近く、丹が知る限り、プロ野球の王貞治など成功者は数えるほどしか実在しない。


丹自身、そばが好きだったわけではない。本当に好きなのは作詞だったが、得意な経営に没頭したことで、富士そばを成功させた。 

 

「苦労した人、苦労していない人。これは雲泥の差があります。愛があって、苦労を与えないといけない」

丹の、子供として、親としての思いや感情が言葉に込められている。


富士そばの海外進出のため、丹は数年前に自身の息子を台湾へと送り出した。出発当日の朝、涙が止まらなかったという。


「親は、本当は自分の子供に苦労なんかさせたくない。せつないものだな、と。僕の母親もそうだったんだな、と思いました」


子供時代は苦しかったが、愛ある苦労があったからこそ今の自分があると自負している。 

 

「成功ではなく、失敗から学ぶ」

次々と成功を収めてきた丹だが、それ以上に失敗を繰り返してきた。
仕事を転々とし、上京するたびに失敗し続けた経験が、結果的に自身を助けてくれたという。

 

 

丹 道夫(たん・みちお)

1935年生まれ。愛媛県西条市出身。東京栄養食糧専門学校卒。4度の上京を経て埼玉県川口市弁当屋を開業し、その後不動産業にて月商30億円を売り上げるほどに成長。66年、渋谷、新宿、池袋、西荻窪にて 名代 富士そばを24時間営業にて展開。72年、ダイタンフード株式会社を設立し、立ち食いそば業に専念する。その後も、名代富士そば関連のグループ会社を増やして現在に至る。18年2月時点で、グループ会社8社、国内128店舗。著書に『らせん階段一代記』『商いのコツは「儲」という字に隠れている』がある。

会社ホームページ:http://fujisoba.co.jp/



 

 

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