行ったつもりになれる自転車紀行文連載「行ったつもりシリーズ」。
今回は群馬県にある世界遺産・富岡製糸場とその周辺をサイクリング。スマホアプリで集められるデジタルスタンプラリーにも挑戦しながら、秋の上州路を走ってきた。
世界遺産には人並みに興味があって、これまで国内外でちょこちょこ訪れたりしていたが、もちろんまだ行ってないところ、行ってみたいところはたくさんある。
東京からも訪れやすいので気になっていた富岡製糸場は、2014年に世界文化遺産に登録。正確には「富岡製糸場と絹産業遺跡群」となっており、群馬県南部に散らばる4資産で構成され、自転車で回ることもできそうだ。
さらに、この世界遺産4ヵ所に加えて、日本遺産2カ所、群馬県が指定する「ぐんま絹遺産」16カ所の計24カ所をめぐるデジタルスタンプラリーも開催(21年11月末まで)されているということで、これにも挑戦してみることにした。
伊勢崎の世界遺産からスタート!
最初に向かったのは、群馬県伊勢崎市にある世界遺産のひとつ「田島弥兵衛旧宅」。近くの駐車場までクルマで行って、そこからサイクリングをスタートした。
田島弥兵衛は幕末から明治前半にかけて活躍した人物で、「清涼育」という養蚕技術を確立。これは自宅2階の蚕室の上に櫓(やぐら)を設置して換気をよくし、蚕を病気から防いで丈夫に育てるという手法で、その後、全国に広めていった。
その自宅の母屋は、世界遺産ながら田島家の子孫の方が今も住んでいて、中は見学できない。以前は月1回、母屋の一室が見学可能だったが、コロナ禍で休止中。ガイドのおじさんによると、11月から再開できるんじゃないかなとの話だった。
ちなみに、新1万円札の肖像となる渋沢栄一の地元・埼玉県深谷市はお隣で、旧渋沢邸や渋沢栄一記念館は約4kmしか離れていない。
さらに「田島武平(田島家の本家)は渋沢栄一と親せきで、弥平さんも渋沢栄一や西郷隆盛、大久保利通と知り合いだった」とガイドのおじさんが言っていたように、明治の偉人たちとも深いかかわりがあったようで、弥平は蚕種(蚕の卵)の輸出などを行う島村勧業会社も設立している。
ところで、デジタルスタンプラリーだが、群馬県がリリースしている「きぬめぐり」というスマホアプリをダウンロードし、「三大遺産・デジタルスタンプラリー」のページを開く。
スマホのGPSをオンにして対象の施設に近づいたら、その施設のページを開いて「スタンプを押す」ボタンを押せば、スタンプが溜まっていく仕組みだ。
藤岡市で2つの石碑を巡る
次のスポットへは、約15km西へ。群馬県藤岡市の諏訪神社内にある「高山長五郎功徳碑」(ぐんま絹遺産)だ。
あとで詳しく知ることになるが、養蚕の学校「高山社」の創設者・高山長五郎の功績を伝えるため、高山社社員ら全国24府県1716名の寄附により、1891年(明治24)に建てられた石碑だという。
ここから藤岡の市街地を約2㎞走って、次に訪れたのは富士浅間神社内にある「福島元七顕彰碑(福島翁の碑)」(ぐんま絹遺産)へ。
福島元七は、重労働だった桑葉を刻む作業を機械化した「福嶋式桑刻機」を開発した人物だそうだ。
古墳から堀越二郎まで!歴史館を見学
続いて4kmほど西にある藤岡歴史館へ。周りには白石古墳群と呼ばれる古墳がいくつかあり、この歴史館も土器や埴輪など古墳からの出土品が数多く展示されている。
ここには、高山社で養蚕の教材として使用したという掛け軸「養蚕畫解(ようさんかくかい)」、さらに明治36年内国勧業博覧会での「附褒状(つけたりほうじょう)」、要はいい製品を作ったねという表彰状みたいなものが所蔵され、ぐんま絹遺産に指定されているが、常設展示ではないようで見られなかった。これ以外にも養蚕関連の資料がいくつか展示されていた。
またジブリ映画「風立ちぬ」の題材となった零戦設計者・堀越二郎は藤岡出身のようで、堀越が手掛けた旧日本海軍の戦闘機の模型や資料なども見ることができた。
歴史館を出て、次は3kmほど南の「緑埜精糸社跡(みどのせいししゃあと)」(ぐんま絹遺産)へ。今は空き地となっているが、ここに明治12年に設立された製糸会社があったそうだ。
また現存する隣の住宅・折茂家主屋は高山社分教場、つまり養蚕学校の分校としても利用されていたそうだ。
日本経済を支えた養蚕産業を学ぶ
さらに約5km南へ自転車を走らせる。時計はそろそろ正午を回ったころで、住宅街から少しずつ山の中へ入ってきたが、標高は180mぐらいとそれほどでもない。周りの木々の葉が赤や黄色に色づき始めている中に、2つ目の世界遺産「高山社跡」があった。
受付やガイドの方々が親しげかつ丁寧で、ガイドのおじさんが「10~20分説明しますけど、聞きますか?」と聞かれたので、何気なくうなずいてしまった。
ガイドさんがタブレットを使って説明を始めたが、なかなか終わらず、結局1時間近く話を聞いてしまった。朝早く出発したので途中で眠気に襲われかけたが、おかげで明治期の日本の絹産業がいかに重要なものであったかが理解できた。
この時期、欧州での蚕の病気などで世界的に生糸が不足しており、日本の生糸の需要が高まり、後に世界一の輸出国になった。つまり絹産業は、一昔前の自動車や電化製品のような日本の産業の中心的存在だったのだ。
この高山社跡は、平家の末裔という家系の名主・高山長五郎の屋敷だったところ。長五郎は屋敷を建て替えて蚕室の改良を重ね、温度・湿度・換気などを細かく管理した「清温育」という養蚕技術を確立。最初に紹介した田島弥兵衛の「清涼育」をさらに発展させたもので、蚕の病気を防ぎ、質のいい繭を安定して大量に作ることができるようになった。
その後、長五郎がこの地に設立した「高山社」は養蚕の専門学校的なもので、全国各地から若者が入学し、その「清温育」の技術を日本中、さらには海外にまで広めた。
一方、富岡製糸場では繭から生糸までを全自動で製造できる自動繰糸機も開発。これらの技術革新のおかげで、日本は高品質の生糸を大量に世界に輸出できるようになり、日本発の技術も世界に広まっていったという。
その高山社跡の建物だが、現在は白い工事用のテントに覆われている。
10数年前までは高山家の子孫のおばあさんが1人で暮らしていたそうで、アルミサッシやユニットバスなどもついた現代風の住宅になっていたらしい。
現在は市が管理し、明治期の姿に戻すための復元工事中。釘などを使わない日本独自の工法で手作業で行っているため、完成まであと7年ほどかかるそうだ。
偉人・高山長五郎とご対面!
すぐ近くのお寺、曹洞宗興禅院に「高山長五郎の墓」(ぐんま絹遺産)がある。脇道の先にそのお寺があるのだが、ここがかなりの激坂で途中で足をついてしまった。さらにそこから石段を登った先に長五郎の墓はあり、高山社跡を見下ろしていた。
近くにある高山社情報館にも立ち寄ると、時計はもう午後2時近い。
いろいろためになる話を聞けたけれど、時期的に日没も早くなってきているし、残された時間はあまりない。
とりあえず、西に向かって自転車を走らせながらこの先のプランを考える。
ここまで集めたスタンプは7つ。途中にもスタンプスポットはあるのだが、いったんスルーして真っすぐ富岡方面に向かうことにした。というわけで、次回はいよいよ今回の本丸「富岡製糸場」を訪れる。
(光石達哉)