【雑学】階段の踊り場は○○に起源があった

f:id:mimiyori_media:20200825103338j:plain

日本における踊り場誕生のきっかけは意外な出来事だった?(写真:photo AC/acworks)

言葉とは不思議なもので、組み合わせ次第で思わぬ方向へ意味を変えてしまう。例えば、マンションにもよくある「踊り場」。来日したての外国人なら「ダンスフロア」を思い浮かべるところだが、ご存知の通り、「踊り場」は階段の途中に設けられたあの平らな場所のことだ。常識ではあるが、では一体なぜなのかと聞かれると返答に詰まる。今回、ガチで調べてみると意外なことが分かった。

 

 

「踊り場」って」いつから?

そもそも、江戸時代まで日本建築に「踊り場」は存在しなかったという。上下階の行き来には直線的な階段、もしくははしごが一般的だった。直線的な階段と言えば、江戸時代に新選組が攘夷派を急襲したといわれる「池田屋事件」、それを描いた1958年の映画「新選組」の名シーン「階段落ち」をイメージする方も多いだろう。「踊り場」は俳句の季語として存在していたが、踊りをする場所、という意味しかなかったようだ。

鍵はあの建物にアリ~総工費「28億円」の超豪華建築

f:id:mimiyori_media:20200825103331j:plain

日本における踊り場の起源となった鹿鳴館を設計したコンドル(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「コンドル博士遺作集」)

転機は明治時代に訪れた。日本は列強諸国と結んだ不平等条約改正を目指して近代化のアピールに躍起になっていた。その象徴的な存在だった鹿鳴館の造りに、今回の鍵があった。

鹿鳴館は明治政府によって招へいされたイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルが設計した迎賓館だ。本格的な西洋建築の実現を期して14万円もの建築費が投入された。現在の価値にして約28億円。同時期に竣工した外務省の建設費は5万円であり、鹿鳴館には破格の資金が投入された。

実体は“まぼろし~”!?

敷地面積はなんと8352坪、サッカー場4面の広さだ。2階建てレンガ造りの本館前には池も配置された。当初はルネッサンス調を意識した意匠が模索されたが、コンドルは鹿鳴館に西洋建築の技法だけではなく、インド・イスラム風も取り入れた。明治政府が意図した「本格的な西洋建築」からは若干離れたものになってしまった上に、当時は外国人からの評判も今一つだったようだ。コンドル自身も鹿鳴館について感想を残しておらず、胸を張れる出来ではなかったのかもしれない。  

鹿鳴館は第二次世界大戦前に取り壊されてしまった上に、設計図までもが消失している。残された資料は簡単な平面見取り図やわずかな写真程度で、幻の建築物と呼ばれる。階段については手すりの一部分が東大建築学部の倉庫に保存されているが、肝心の踊り場部分は残されていない。それでも、2階の舞踏室へと続く大階段が三つ折れだったことは間違いなく、途中に踊り場の存在も確認できる。

美女は階段で「踊る」

f:id:mimiyori_media:20200825103335j:plain

特徴的なバッスルドレスを着用し、舞踏会で女性が踊る姿は、錦絵として現在も残っている(出典:国立国会図書館デジタルコレクション「”大日本歴史錦繪」)

舞踏会は西洋文化の窓口である鹿鳴館の代名詞だった。特に社交界の美女は「鹿鳴館の華」として名を馳せる中、華麗さを際立たせた服装がバッスルドレスだった。バッスルとはスカートの後ろ部分をふくらませるために用いる腰当や枠のことで、ウエストが細く見えるように工夫されていた。階段途中で方向転換をする際、後ろ部分の大きなふくらみが翻る様子を踊りに見立てて「踊り場」という言葉が生まれたといわれている。

「踊り場」の今

ちなみに、学校の階段に必ず踊り場が存在する理由は、明治15年作成の文書「文部省示諭」における規制が今も受け継がれているためだという。生徒が上から下まで転げ落ちる事故を防ぐ安全上の理由もあるが、当時は石炭ストーブが使われていたことで天井を高くし、空気の循環を円滑にして一酸化炭素中毒を防ぐ意図があった。また、後日談としては「階段落ち」の池田屋の跡地には現在も同名を掲げた居酒屋が営業している。長い急階段も再現されているが、途中に小さな踊り場が設けられている。

鹿鳴館は明治政府が期待したほど効果を発揮することができず、わずか4年ほどで役割を終えてしまった。しかし、鹿鳴館で生まれた踊り場という言葉は人々の間で使われ続け、100年以上の時を経て今もなお社会に定着している。新語・流行語が生まれるのは現代でも同じ。1世紀経っても生き残るのは、意外なあの言葉なのかもしれない。(mimiyori,編集部)