2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働く、いち社会人となった。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は、「QUINTETで負けた話」①。
このたび9・10 QUINTET横浜アリーナ大会で、桜庭和志の長男・大世のプロデビュー戦の対戦相手を務めた。
結果は膝十字固めにタップして黒星。
同じ柔道出身であり、まだ24歳の大世はサラリーマンから格闘家に転身。
そして、内柴氏は2023年6月で45歳を迎え、一般社会で働き始めて4年目。
記者会見ではさまざまな思いが押し寄せ、涙する場面もあった。
試合翌日、熊本へ帰郷する機内の中で心の内をつづった。
負けるには負ける理由がある
帰りの飛行機です。
「クインテット、負けました」。
子どもの頃から負けてへこまず、
大人の先生にはへこんでいるふりをし続けていたものです。
負けるには負ける理由があり、
すぐにでも弱点克服のための練習をすればいいだけの話。
そう考えてきた僕。
当時、演技でへこんでみせるのは退屈なものでした。
今回の敗因は、ていねいなポジションチェンジができていなかったこと。
それだけだと思います。
敗れて「幸福感」に包まれた
もちろん、
桜庭大世くんの情報も、どのくらいの強さかも分からない状態で予測しての準備でした。
想定内の強さで、僕でも対応できた部分。
想定外は、膝関節が
僕のこの短い脚に上手にハマったことでした。
何度か技の形に入れたところがあり、決まらなくても固めて判定勝ちを狙う方法もあったかな。
なんて思うのですけど。
ハナっから、
決めるか決められるかしか考えずに練習してきたので、判定なんて忘れていました。
今回は試合が終わった瞬間に
とてつもない「幸福感」と全身を襲う「乳酸」を味わいました。
それは勝った時の爽快さとは違う。
この歳になって出し切れた感なのかもしれません。
「何だろう、俺もう終わりなのかな」
勝負師として。
周りに相談したくらいです。
今は離れている子どもたちへ
「続けていればいつか出会える」。
誰にでも、誰とでも、僕はこの想いでいます。
この10数年間、常に頭を離れないのは、子どもたちのことです。
別れた妻にも申し訳ない想いもあり。
こう思うことは現在、僕を支えてくれている妻・寿子さんに失礼なのかもしれないけれど。
過去を忘れてヘラヘラと反省もなく生きるのではなく。
人として後悔も反省も抱えて今、挑めるものに挑戦することが大切だと思うのです。
かつて、僕が子どもの頃に
生みの母に会えない想いを抱えて、
柔道で結果を残せば「元気だよ」というメッセージを送れるのではないか。
そう思って、頑張って柔道をしていた時期と変わらない気持ちです。
「元気だぞ!」
「ごめんな」
「元気だぞ!」
一方的ですけど。
閉ざされた扉が開くことがあるのか分からないけれど。
僕が死んだ後にでも風の便りにでも伝わらないかなあ、なんて思います。
アテネ五輪の「ごめんなさい」
僕は初めて出場したアテネ五輪の時に、父にお願いして
五輪には生みの母を連れてきて欲しいとお願いし、かなえてもらいました。
今の母さんには「必ず次に連れて行くから」と約束をして。
大会当日、
僕、会場の通路で大昔に別れた夫婦、
お父さんとお母さんに会いました。
お父さんは僕に加藤清正神社の塩をまきまき。
お母さんは「いただきます」の手の形をして頭を下げて。
つぶやいていました。
「ごめんね、ごめんね」
何度も何度も。
本当にね。何度も。
笑っちゃって。
普通、「頑張れ!」とか、なんかあるだろうに謝ってるんだもん。
僕が20年ほど、家族のことで悩み続けたことは
こんなたいしたことのない話だったのか。
この瞬間に何か吹っ切れるものがあり、初めて勝てる予感がしたものです。
人生の思い悩みを柔道にぶつけ、何年も何年も苦しみ続けてかなえた夢の舞台に上がる時に、母は祈るように謝っていた。
僕の柔道は家庭の中の苦しみ、さびしさをすべて自分のせいにして
柔道の成長へとつなげていたので
ほかの人と違うのは、「かなわぬものを絶対にかなえる」。
才能程度の足りないものは、意地でも引き上げればいい。
センスの限界を超えた明確な手順。
こういうものは
暗い僕の考え方が、過去の夢をかなえさせてくれたのだと思います。
頑張る理由は「誰かのため」
結果、僕も子どもたちに思うことは「ごめんね」という気持ちなんです。
何にしても、
今回の試合
オリンピックチャンピオンではなかったら、出られなかったでしょう。
過去の自分に本当に感謝しています。
その過去を支えてくれたみなさんがいたから、あの頃の僕は頑張れました。
今も昔も感謝は変わりません。
そうして
現在、
こんな僕を支えてくれる妻・寿子さんを筆頭に
内柴道場に関わる皆様。
長生きしてほしいお父さん、お母さん、妻のお父さん、お母さん。
みんな、みんなありがとう。
負けたけど
全部出そうとして負けました。
エネルギーもほとんど空っぽまでやりきれました。
いつかまた、呼んでもらえるように一つずつ積み重ねて。
頑張ります。
”内柴道場”を大きくする
今、できたばかりの“内柴道場”ではありますが、
子どもたちが僕の練習相手になるようになるまで何年かかるか分からないけど。
まだまだ、人を集めて賑わう空間をつくろうと考えています。
普段は「自身の目標の達成」のための柔道教室です。
裏のコンセプトは
「内柴正人の練習相手を育てよう」です。
笑ってください。
そうして通える人は通ってください。
仲間になって
一緒にいろんな大会へ出てみましょう。
大丈夫、
「試合にまで出たくない」という方もいらっしゃるでしょう。
僕が代わりに出ますから!
みなさんの練習の成果を僕が代わりに試合に出て挑みますから
内柴道場へお越しください。
目指すは会員さん300名。です。
道場はあと2つ作りたいです。
以上、
みなさん
負けてすみません。
いつか出会えますように。
こだいがしゅぐる(※キルギス共和国の言葉)
(内柴 正人)
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◆内柴道場「EDGE&AXIS」公式HP
◆EDGE&AXIS 公式ショップ
◆内柴正人氏による柔道指導の動画配信
内柴氏が現在、熊本・八代市で小学生から大学生を対象に開催している練習会を中心に、指導内容を盛り込んだ動画配信を22年4月から開始している。
より詳しい内容について、メンバーシップ配信も開始した。
メンバーシップ配信では、今回の道場づくりについても動画をアップ中。
詳細は下記YouTubeのコミュニティ欄へ。
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
#MasatoUchishiba