強い日差しを浴びながら歩いていると、ふと若き日の夏を思い出すことはないだろうか。例えば、小学生の時にセミ取りに行った時のこと、高校時代に歩いた通学路……。
ある都立高校を卒業した者たちの脳裏に浮かぶ光景は、大通りから正門まで延々と続く、急な坂道だ。ところが30年以上もの時を経て、その坂道の記憶に事実とは異なる点があることが分かった(全3回)。
[文・取材=室井昌也(韓国プロ野球の伝え手)]
思い出の坂の名前が違う!?
2020年3月、コメディアンの志村けんさんが亡くなった。
そのニュースに筆者は悲しみに暮れながら、かつて出身校を言うたびに耳にした言葉を思い出していた。
「志村けんの母校?」
その高校の名は東京都立志村高校。板橋区の地名を配した校名で、志村さんとは無縁だ。しかし「志村」と言えば「志村けん」。多くの人がそう連想するほど、志村さんの存在は大きかった。
一方の志村高校を象徴するもの、それは坂だった。同高校は、首都高速5号池袋線の高架橋を見下ろす高台に位置。全長170メートル、高低差16.7メートル、平均斜度7.5度の急坂を上らなければたどり着くことができない。生徒たちが呼んでいた、その坂の名は「源平坂(げんぺいざか)」だった。
ある者は自転車にまたがり、一度も地面に足をつくことなく上り切ることを日課とし、また運動部員は急斜面を駆け上がるトレーニングを「源平ダッシュ」と呼んだ。また、冬場に路面が凍ると休校になるという噂から、夜のうちに坂に水をまこうと画策する生徒もいた。
この高校に3年間、嫌々通っていた筆者にとって、憂鬱(うつ)でならない通学時間の極めつけが源平坂だった。
その源平坂について、29年前に同校を卒業した都内在住の会社員・鈴木智巾(ともひろ)さん(47)は驚きの事実を発見する。
「図書館で『板橋の地名』(板橋区教育委員会刊)という本を開いていたら、ウチの高校に向かう坂道の写真が載っていたのですが、写真についたキャプションが思っていたものと違ったんです」
坂を正面から撮った写真の下に記されていたのは、「源平坂」ではなく「伝兵衛坂」。本文には以下のように書かれていた。
<伝兵衛坂(でんべいざか)…志村高校西側の坂。坂の上は、民家はなく畑でした。伝兵衛は人の名ですが、不明です。>
鈴木さんは本の中をくまなく探したが、源平坂の文字はない。それなのになぜ志村高校の生徒たちは坂のことを源平坂と呼んでいたのか。その謎を探るべく、鈴木さんから解明を託された筆者は同校の歴代の卒業生たちに会いに行った。
「ソラミミスト」の坂の記憶は?
イラストレーターの安齋肇さん(66)は豊島区・北池袋の出身。志村高校には1969年に入学した。
「入学式の日におふくろと2人で高校に行ったら、坂を上がる手前と、坂の途中にもお巡りさんが立っていて、『すごいね、高校の入学式って』と話していたら、校門にはアジテーションの看板があって、教室はバリケード封鎖されていました。記憶が間違ってなければ、入学式のその日に校長先生が拉致されたんですよ」
当時は学生運動が盛んだった時代。「高校生というのは頭の中は中坊のままだけど、ちょっと背伸びをした子供と大人の間の一番いい時期なのに、学校に行っても校舎には入れなくて、体育館で全校集会をやって解散。出鼻をくじかれましたね」
高校時代の安齋さんは学校前の急な坂道を、極力上りたくないと思っていた。
「部活で鍛えるための急な坂だから、鍛える気のない人間は東武練馬の方から(坂を通らない)裏の畑に出て学校に行っていたんです。一度、授業を抜け出して坂を下りて駄菓子屋に行ったら、他の高校の生徒にカツアゲにあったんで、あの坂には全然いい思い出がない(笑)。人生で一番大事なのは、いかに坂を作らないかですよね。思い出すのは雪が降った時に、坂でスキーをやっている奴がいたことですね」
安齋さんに坂の名が源平坂であったかと尋ねると、「そう言っていたかもしれない」と確かな記憶ではない様子。
「源平の戦いの崖のように、『ここまでは攻めて来ないだろう』というくらい急な坂だから、源平坂とついたんじゃないのかな。アスファルトの地面に引っかかるようについた丸い型は、馬の蹄のようですよね」とイメージを膨らませた。
しかし坂の名は「源平坂」ではなく、「伝兵衛坂」であることを伝えると、安齋さんは筆者の意図を察してだろう、一拍置いてこう言った。
「空耳?」
「上の畑を耕していた志村伝兵衛さんって人がいたのかなあ。確かに『伝兵衛』より『源平』の方が覚えやすいよね。『源平』の方が坂の急さが伝わって、『伝兵衛』だと、なだらかな坂のイメージですよね」
明らかになったのは、安齋さんの在学中も志村高校では「伝兵衛坂」とは呼んでいなかったということ。ではなぜ「源平坂」となったのか。やはり空耳か。
高校時代から変わらないもの
安齋さんにとって志村高校で過ごした3年間とはどんなものだったのか。
「漫画研究会(漫研)やハンドボール同好会を作ったり、自分たちで何かをやろうというのは今と変わっていないですね。当時大学生だった長髪でサンダル履きの美術の教育実習生が自由な生き方をしているのを見て、『こういう大人になれるんだったらいいな』って、その先生に美術をやりたいって言いました」
「絵を描くことが、努力しないで社会から離れた理想の場所に行けることだと思えたんです。漫研の時に『高一時代』という雑誌で特集されて、その頃から簡単なキャラクターを描いていたので、それも今と変わってないんですよ」
安齋さんは校長先生が生徒に向けて発した言葉を今も強く覚えている。
「『社会の歯車になるのは嫌だと言っているけど、君たちは社会の歯車にすらなれない』と言われました。先生は『歯車の一つになるのは大変な事なんだぞ』という意味で言ったんでしょうが、しばらく理解できなくて、なんてことを言う人だ、だから大人になるのは嫌だと思いましたね」
高校を卒業してから48年。校長先生の言葉と志村高校での日々を改めて思い返した。
「ただ実際、歯車にはなれていないし、今も社会を回す方にはなっていない。坂を上らなくても東武練馬に道があるならそっちに進んで行こうと(笑)。丘や平地で暮らすような、平坦でピークのない人生を送っています」
(つづく)
安齋肇(あんざい・はじめ) 1953年生まれ。都立志村高校卒業後、桑沢デザイン研究所デザイン科修了。イラストレーターとしてJAL「リゾッチャ」のキャラクターデザインや、奥田民生ツアーパンフレットのアートディレクションなど、数々の作品を手掛ける。NHK Eテレでテレビアニメ化もされた絵本「わしも-WASIMO-」(原作:宮藤官九郎)は子供たちから人気を集めている。テレビ朝日系「タモリ倶楽部」空耳アワーの「ソラミミスト」としても有名。
2020年9月13日まで、しもだて美術館(茨城県筑西市)で「安齋肇 えとえのえほん展~ハロルドコミックス危機一髪~」を開催中。最新キャラクター「ハロルドコミックス危機一髪」を中心にした新作絵画と立体作品を展示。みうらじゅん、宮藤官九郎、スチャダラパーとコラボした絵本や創作童話も集まったポップでキュートな展覧会だ。