【母校トリビア】ある高校に伝わり続けた「空耳」~30年以上も間違われていた坂の名とは?(中編)

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母校の思い出を語る寺田農さん(写真:笠原 良)

強い日差しを浴びながら歩いていると、ふと若き日の夏を思い出すことはないだろうか。例えば、小学生の時にセミ取りに行った時のこと、高校時代に歩いた通学路……。

ある都立高校を卒業した者たちの脳裏に浮かぶ光景は、大通りから正門まで延々と続く、急な坂道だ。ところが30年以上もの時を経て、その坂道の記憶に事実とは異なる点があることが分かった(全3回)。
[文・取材=室井昌也(韓国プロ野球の伝え手)]

 

 

憧れの人に聞きに行く

前編では東京都立志村高校の卒業生にとって通学に欠かせない坂道が、本来の名称の「伝兵衛坂(でんべいざか)」ではなく、「源平坂(げんぺいざか)」と伝わっていることを紹介した。1972年に同校を卒業し、テレビ朝日系の人気長寿番組「タモリ倶楽部」でもおなじみのイラストレーター・安齋肇さんも正式名称を知らなかった。これは脈々と続く「空耳」なのか。安齋さんより上の世代ではどうだったのか。証言のバトンをつないでもらうことにした。

「寺田さんは憧れの存在ですよ。僕らが高校生の時からテレビの青春ドラマに出ていましたから」

安齋さんが話す「寺田さん」とは、11年上の先輩にあたる、志村高校4期生の俳優・寺田農さん(77)だ。洋画家・寺田政明さんの長男として、「池袋モンパルナス」と呼ばれたアトリエ村で生まれ育った。その寺田さんに高校時代の思い出、坂の記憶を東京・池袋で聞いた。

世代で異なる坂の記憶

幼少期を池袋で過ごした寺田さんは後に転居し、高校時代は学校から程近い板橋区前野町に暮らしていた。

「僕は徒歩か自転車で通っていましたけど、(東武)東上線で通学する志村の生徒は、電車を利用する人たちから、『志村の生徒は見ればすぐわかる。泥だらけの靴か長靴を履いているから』と言われていたようです」

寺田さんが高校生の頃、志村高校周辺の道路はまだ舗装されていなかった。当時から高台にあった学校に向かう生徒たちは、雨の日や霜が降りる冬には靴を汚しながら坂を上るのが常だった。

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高校時代を振り返る寺田農さん(写真:笠原 良)


では、その坂のことを寺田さんは何と呼んでいたのか。

「学校の正面の坂が何と言ったかという記憶はないんです。今日、ここに来る前に体操部やバレーボール部だった同級生に尋ねましたが、名前はないと言うんですよ」

源平坂という名についても、「同級生たちは『そんな名前は聞いたことがない』と言っていました」と話した。

サッカー部だった寺田さんは3年間練習に明け暮れたが、のちの後輩たちのように学校前の坂を上り下りするトレーニングをしたことはないという。

「当時は体育館やプールがなかったので、その分グラウンドが広くて、フィールドを使うサッカー部、野球部、陸上部だけではなく、柔道部やバレーボール部も外で練習していました。みんなけんかすることなく折り合いをつけて、グラウンドを使っていましたね」

寺田さんが高校生の時は、名もなき坂だった志村高校前の急坂。一方で寺田さんの在学中、サッカー部で監督を務め、今も寺田さんと親交がある元体育教師の関口秀俊さん(90)は、坂についてこう話す。

「あの坂は源平坂ですよ。テラ(寺田さん)の頃は名前がないって?そうですか。では、いつからだろう。ただ志村高校では誰も伝兵衛坂とは言っていなかったです」

関口さんは教員生活の大半を占める34年間、志村高校で教鞭を執った。その間、伝兵衛坂と呼ぶ生徒はおらず、寺田さんが1961年に卒業した後、どこかのタイミングで源平坂という名が浸透したことがわかった。

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当時の志村高校サッカー部。後列右から2番目が寺田農さん。前列中央、帽子の男性が関口秀俊さん(写真:寺田農さん提供)
 

思わぬ誘いが「元祖カメレオン俳優」を生んだ

寺田さんは高校卒業後、早大政治経済学部に入学した。筆者をはじめ、のちの卒業生からは想像はつかないが、当時の志村高校は進学校。高校時代に描いた夢、それはとても大きなものだった。

「絵描きをやっていたウチの親父は作家の尾崎士郎さん、檀一雄さん、司馬遼󠄁太郎さんらとコンビを組んで、新聞連載小説の挿絵を描いていました。僕が小学生の時に家に帰ると、新聞社の黒いハイヤーが3台くらい停まっていて、親父の絵ができるのを待っていた。それを見て『新聞社って、かっこいいなあ』と思いましたね」

「朝日新聞の政治部に入って、政治部長になって、それから後には政界に打って出ようという、もの凄い野望を持っていました」

ところが、人生は早大入学直後に同級生の誘いによって大きく変わる。

「芝居の世界に色気を持っていた同級生が、『文学座が新人を募集している。一緒に受けないか?』と声を掛けてきました。僕はテレビや映画に興味はないし、舞台も見たことはなかったのですが、受験したら彼は落ちて、僕は受かってしまいました」

「大学に戻らなきゃいけないし、(劇団を)早く辞めたいと思っていましたが、大学1年の秋には三島由紀夫作品の本公演への出演に抜てきされてしまって、そのままずるずると思い起こせば60年近く、この仕事をやっているんですから不思議なものですよ」

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役者生活を振り返る寺田農さん(写真:笠原 良)

同級生の誘いから、思いもよらぬ役者の世界に足を踏み入れた。そのきっかけから60年のキャリアをもってしても、自身を「いまだにアマチュア」だと見ている。

「芝居に対して、プロフェッショナルのように、どんと腰を落ち着けて何かを追求していくというのができないんですよ。次にどんな作品をどんな人とどんなふうにやるのか、常に面白いことを探していくのが性に合っていますね」

「この国ではちょっとテレビに出たりした役者が亡くなると、新聞のキャプションは『名脇役』となる。ありがたいことに何年かしたら僕の死亡記事にもそう出るかもしれない(笑)。ただ脇役で「名」がつくのなんて5人いるかいないかですよ。そんなことを沢村貞子さんの『わたしの脇役人生』(筑摩書房刊)の解説にも書いたことがあります」

「肩書にも頓着はないですが、亡くなった樹木希林(文学座附属演劇研究所の同期)と6年前にNHKの『ミュージック・ポートレイト』という番組に出た時に、僕が次から次にいろんな役をやるから『カメレオン俳優』と紹介されて、それはいいなと思いましたね」

常に新たな発見に興味を示す寺田さんの「志村高校のことをルーツ的に探っていくのは面白いかもしれないね」という言葉に背中を押され、筆者は源平坂の謎をさらに解いていくことになった(つづく)。

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撮影場所:豊島区西池袋のカフェ・ZOZOI(写真:ストライク・ゾーン)

 

 

寺田農(てらだみのり) 1942年生まれ。都立志村高校卒業後、早大政治経済学部に入学。大学在学中に、文学座附属演劇研究所に1期生として入所する。1968年、映画「肉弾」(監督・岡本喜八)で「第23回毎日映画コンクール」男優主演賞、1985年には映画「ラブホテル」(監督・相米慎二)で「第7回ヨコハマ映画祭」主演男優賞を受賞する。数多くのドラマ、映画で活躍するほか、アニメーション映画「天空の城ラピュタ」(監督・宮崎駿)でのムスカ役の声でも人気を集めた。2008年、東海大文学部文芸創作学科の特任教授に就任。

2020年8月8日から映画「瞽女GOZE」(監督・瀧澤正治)が新潟にて先行公開、全国公開が順次予定されている。また主演作の「信玄の父 信虎 -国主の帰還-」(監督・金子修介)、「祈り」 (監督・松村克弥)の公開を控え、2021年完成予定の「車線変更 -キューポラを見上げて-」 (監督・赤羽博)にも出演する。

 

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