間違った名が伝わった時期が明らかに
前編では東京都立志村高校の卒業生にとって通学に欠かせない坂道が、本来の名称の「伝兵衛坂(でんべいざか)」ではなく、「源平坂(げんぺいざか)」と伝わっていることを紹介。1972年に同校を卒業し、テレビ朝日系の人気長寿番組「タモリ倶楽部」でもおなじみのイラストレーター・安齋肇さんも正式名称を知らなかった。
中編には安齋さんの11年先輩にあたる俳優の寺田農さん(77)が登場。寺田さんは坂の名自体を知らなかったが、同校に34年間勤めた寺田さんの恩師は「あの坂は源平坂。誰も伝兵衛坂とは言っていなかった」と話した。
では、いつから校内に「源平坂」という名が浸透していったのか。卒業生からさらに聞き取りを行った。
同校卒業生・佐々木(旧姓・鈴木)文子さん(59)は東京・墨田区で息子が営む、野球用グラブ・ミットの製造工場「GRIT」の業務を手伝う。12歳上の叔母、24歳下の娘も同校出身という「志村高校一家」だ。
佐々木さんに同校に向かう坂道について尋ねると、こう答えた。
「私の時代は当たり前のように源平坂と呼んでいました。娘もそう言っています。叔母は坂の名前は意識したことがないそうです」
佐々木さんが同校に入学した時期は77年。この証言により源平坂と呼ばれるようになった時期が徐々に分かってきた。
近隣住民が呼んでいたのは…
一方、同校の近隣住民は坂を何と呼んでいるのか。家々を訪ねて聞くと、返って来た答えはすべて「伝兵衛坂」だった。代々、その地で暮らす山口忠好さん(67)もこう話す。
「小さい時から伝兵衛坂と呼んでいました。志村高校が出来る前はよじ登っていかなきゃ歩けないような山道でしたよ。その頃からウチのおじいさんも伝兵衛坂と言っていました」
山口さんは志村高校の卒業生でもあり、サッカー部で寺田さんの10年後輩にあたる。
「あの坂の名前は伝兵衛坂ですが、志村の生徒は源平坂って言っていましたね」
証言をまとめると、同地では古くから伝兵衛坂という名が知られていたが、寺田さんが入学した58年当時、学内で坂の名を耳にすることはなかった。しかし、安齋さんが高校生活を過ごした70年代初頭に源平坂と呼ばれ始め、70年代後半にはその名が定着。以後、志村高校では誰もがその名を疑うことなく呼び続けたようだ。
では、なぜ「源平坂」なのか。証言の中には「かつてこの辺りで合戦があって、平家をかくまったと聞いた」というものもあったが、そのような記述を歴史書の中から見つけることは出来なかった。
「源平坂」と誰が言ったが知らないが、「伝兵衛坂」とも確かに聞こえる。そんな「空耳」が志村高校の中に脈々と伝わり続けた、というのがここまでの調査の結論だ。
生まれ変わった学校での坂の存在
現在、坂のことを「源平坂」と呼ぶ高校生はいない。なぜなら志村高校はもうないからだ。2007年に閉校し、お笑いコンビ「おぎやはぎ」(小木博明さん、矢作兼さん)の母校でもある都立北野高校に吸収される形で統合。新たに都立板橋有徳高校となっている。
一般的に母校がなくなったというと、寂しさを感じるものだろう。しかし、今回会った卒業生からそういった言葉は聞かれなかった。その理由に都会ならではともいえる地元愛の薄さや、67年から14年間続いた「学校群制度」(入試の点数により居住地域内の高校に振り分けられ、志望校を選べない制度)の弊害を挙げる人もいた。そのため閉校後、母校がどうなったのかを知る人はいなかった。
志村高校は50年余りの歴史を閉じた後、大掛かりな整備工事が行われ、閉校から6年後の2013年に特別支援学校の都立志村学園が開校した。
志村学園には心身の特性から特別な教育的ニーズを持ち、主に車いすを使用している児童、生徒が通う「肢体不自由教育部門」と、軽度の知的障がいを持つ生徒が企業就労を目指す「就業技術科」がある。
その志村学園では坂のことを何と呼んでいるのか。副校長は「校内で坂のことを名前で呼ぶことはないですね。教職員の中で何人かが『伝兵衛坂』だと知っているくらいです」と話した。
坂の様子も志村高校があった頃とは少し変わっていた。傾斜が若干緩やかになり、ガードレールによって歩道と車道が分けられている。その理由を副校長はこう説明した。
「肢体不自由教育部門は近隣地域の小1から高3の児童、生徒が14台のスクールバスで登校してきます。開校時にバスが安全に運行出来るように、道を整備したと聞きました」
ほとんどの肢体不自由の生徒がスクールバスを利用する中、かつて車いすで坂を上って登校していた生徒がいたと、教務担当主幹教諭は振り返った。
「就業を目指す生徒は一人で登校するので、雨の日以外の登下校、車いすで坂を上り下りしていました。『途中で止まったら、上がれなくなるから一気に上がるのがコツだ』と言っていましたね」
この坂を上れば、見えてくるかもしれない
正門を通ると正面に、就業技術科の生徒が飲食店での調理や接客を実践的に学ぶためのおしゃれなカフェが見える。現在はコロナ禍で営業休止しているが、通常は生徒たちが実習としてランチやデザートを提供している。
玄関に向かう途中、中庭の明るい陽射しが教室を照らしていた。窓ガラスがキラキラと輝いている理由は、ビルメンテナンスを学ぶ生徒たちが日々、磨いているからだ。
かつての志村高校と今の志村学園は、場所は同じでも大きく異なる。だが、志村学園の取り組みを見ていると、志村高校卒業生の筆者にこれまで抱いたことのない、母校愛のようなものが芽生えた。なぜか。主幹教諭が語った「やりがい」に答えにつながりそうな言葉があった。
「肢体不自由の子たちは自分と他の人との比較ではなくて、どれだけ自分が素敵に生きられるかが大切です。人と競わなくても誰でも一番になれる、そういうところが好きです。子供たちからはいっぱい元気をもらうし、自分に返ってくることが多いです」
志村高校では「ネガティブなもの」として、とらえることの多かった正門までの急坂。しかし、志村学園の諏訪肇校長は生徒への講話でこんな話をした。
「(高低差)16.7メートルの坂道を1年間200日通い、3年間続けると1万メートルを超えます。継続は力なりです。3年間で身につけた力で、これからも社会人として素敵に輝いてください」
また志村学園の正門横の掲示板には坂を下から撮影した写真とともに、青空の上に白字でこんなメッセージが掛かれていた。
「この坂を上れば
見えてくるかもしれない
無限の可能性」
今では名を呼ばれることのない坂を、日々上る生徒たち。その彼、彼女たちのことをかつて「源平坂」を上ってきた先輩たちが応援する。そんな日が来ればと思いながら、母校を後にした。
就業技術科には都内全域から生徒が通う。1学年8クラス、クラス当たりの定員は10人(写真:ストライク・ゾーン)