【五輪金メダリスト連載】宮崎康二(競泳)はトヨタ創始者と並ぶ郷土のヒーローだった

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)
メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。

2016年リオ五輪までに日本が夏季大会で獲得した金メダルの総数は142個。本コラムでは、日本五輪史上初の金メダリストとなった陸上三段跳びの織田幹雄から、日本バドミントン史上初の金メダルを獲得した「タカマツ」ペアまで、すべての五輪金メダリストと、そのメダルに秘められたドラマを紹介する。

いつの時代も、世界一の称号を目指す選手の情熱は変わらない。五輪を制した勇者たちの姿から人生の醍醐味が見える。
 
 

校歌で豊田佐吉と“共演”

静岡県湖西市立鷲津小学校の校歌に次の一節がある。「ロスアンゼルスの日章旗 誓いあらたに 今はげむ」。これは、ともに同校卒業生で、1932年のロサンゼルス五輪で競泳100メートル自由形の金メダルを獲得した宮崎康二と、同大会の競泳1500メートル自由形で銀メダルに輝いた牧野正蔵の功績を称えてのもの。元校長が作詞し、現代まで歌い継がれている。同じ校歌に「国をおこして 進めたる 世界にほこる 織機王」とのフレーズもあるが、これはトヨタグループの創始者で、同校の前身だった川尻学校出身の豊田佐吉のことを歌っている。

15歳で米国勢の7連覇阻止

ロス五輪に出場した宮崎は当時15歳。世界の舞台では完全にノーマークの存在だった。ところが、100メートル自由形決勝では60メートルを過ぎたあたりからスパートをかけ、70メートル付近で先頭を泳いでいた米国代表のトムソンを逆転。ライバルたちを置き去りにしたペースは最後まで衰えず、58秒2の五輪新記録(当時)でレースを制した。実は、直前まで体調が思わしくなかったため、前半は体力を温存し、終盤に余力があれば一気に出るという作戦が功を奏したといわれる。

100メートル自由形といえば、この時代は米国のお家芸。五輪の同種目は、それまで米国勢が6連覇していた。体格でも圧倒的に勝っていたその米国を、日本の怪童が打ち負かした。宝島社新書『日本の金メダリスト142の物語』によると、ロスの五輪会場で応援していた日本人や日系人が宮崎の快挙に狂喜乱舞したとある。東京・銀座でも「宮崎百米に優勝す」の見出しで号外が配られたとことからも、当時の日本国民の興奮ぶりが伝わってくる。

 

2日後のリレーでも金メダル

1916年生まれ。同郷で、ロス五輪の競泳総監督を務めた田畑政治に見いだされて頭角を現した。ロス五輪では当初、100メートル自由形のみの出場予定だったが、金メダルを獲得したわずか2日後に行われた800メートルリレーにも、大横田勉の代役として出ることが本番直前になって急きょ決まった。第1泳者としてスタートし、専門ではなかったはずの200メートルを泳ぎ切って自身2つ目となる金メダルに貢献した。母校である静岡県立浜松北高校(旧浜松一中)の記念資料館には、宮崎が獲得したトロフィーや記念品、五輪金メダルのレプリカなどが写真とともに展示されている。
(mimiyori編集部)

 

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