【五輪金メダリスト連載】独学で日本ボクシング初の金~1964年東京五輪バンタム級・桜井孝雄

 

三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

コロナ禍にあっても大みそかはボクシングが熱い。

 

2020年12月31日には「WBO世界スーパーフライ級タイトルマッチ」が開催され、日本人初世界4階級制覇の王者・井岡一翔に、同級1位で世界3階級制覇の田中恒成が挑む。

 

すでに世界タイトルの重さを知る両者だが、五輪金メダルの重みは知らない。日本ボクシング界で初めて金メダリストが誕生したのは、1964年の東京五輪だった。

 

 

 

 

 

伏兵大学生が決勝でRSC勝ち 

1964年10月23日、東京五輪のボクシング・バンタム級を伏兵の大学生が制した。

準決勝で強豪のワシントン・ロドリゲス(ウルグアイ)を撃破した桜井孝雄は、決勝でも勢いがあった。

韓国の鄭申朝を相手に序盤からスピード感のある連打で圧倒。4度のダウンを奪うRSC(プロボクシングのTKO相当)勝ちで、世界の頂点に立った。

 

日本のボクシング界にとっては初の快挙。当時、世界的にはまったくの無名だったが、伏線は高校時代からあった。

戦後間もない時期に入学した千葉・佐原高では、ボクシングをよく知る指導者がいなかったため、ほぼ独学で技を磨いた。

手作りのサンドバックを毎日叩き、バンタム級でインターハイ優勝。この活躍が認められて全国の強豪スカウトが殺到する中、名門の中央大学ボクシング部へ進学し、全日本アマチュア選手権で連覇を達成した。

 

 

プロ転向後は怒とうの22連勝

巧派サウスポーで、「打たせずに打つ」技術が桜井の真骨頂。天性の勘で相手の打ち気を敏感に察し、アウトボクシングのスタイルを築き上げた。

五輪後は多くのジムから誘いが届き、65年にプロ転向。スタイルを変えないまま怒とうの22連勝を飾った。

 

プロデビューから3年後の68年には、初めての世界タイトル戦に挑む。

当時のバンダム級王者だったライオネル・ローズ(豪州)と対戦。左ストレートでダウンを奪うなど序盤から快調にポイントを重ねていたが、僅差で判定負けを喫した。

 

その後は東洋チャンピオンとなって2度の防衛を果たすものの、世界タイトル挑戦の機会は巡ってこなかった。世界王者以外に価値を見出せなかった桜井は、71年に現役引退した。

 

 ボクシングの「楽しさ」教える

 

 

 

引退後は東京・築地にボクシングジム「ワンツースポーツクラブ」を開設する。

当時、圧倒的にプロ志向の強いボクシングジムが多い中、桜井はプロの選手を育てつつも、健康志向の高い一般練習生にはボクササイズを教え始めた。

 

自分のペースでやらせ、決して無理をさせない。熱心な練習生が求めれば、惜しみなくテクニックを教え、手本を見せる際の瞬間的なプロの技に練習生らは魅了された。ボクシングの楽しさを知ってもらうことが目的だった。 

 

48年ぶり金メダルは天国で

もちろん自身に続く五輪金メダリストの誕生も熱望していた。

しかし、ロンドン五輪が7カ月後に迫っていた2012年1月10日に、食道がんのため70歳で死去。同五輪のミドル級で村田諒太が獲得した日本ボクシング界48年ぶりの金メダルを見届けることはできなかった。

それでも、病気を宣告されながら亡くなる直前まで、医師に付き添われて後楽園ホールで試合を見守っていたという。

 

アマチュア通算138勝45KO13敗。プロ通算30勝4KO2敗。

 

悲願の世界タイトルには手が届かなかったが、その成績以上に、日本ボクシング界の歴史に残した功績は大きい。 

 

(mimiyori編集部)

 

 

 

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