メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
いつの時代も、世界一の称号を目指す選手の情熱は変わらない。五輪を制した勇者たちの姿から人生の醍醐味が見える。
朝鮮出身の日本代表
女子マラソンの金メダリストを問われれば「高橋尚子」や「野口みずき」とすぐに名前が出てくるが、男子マラソンの金メダリストを即答できる日本人はそう多くない。
五輪史上、男子マラソンで頂点に立った日本代表は、後にも先にも孫基禎(ソン・ギジョン)ただ1人。1936年ベルリン大会で、当時の五輪新記録となる2時間29分19秒で優勝のフィニッシュテープを切った。
孫は日本植民地時代の朝鮮出身。1912年に朝鮮半島北西部の平安北道で4人兄弟の末っ子として生まれ、幼少時代から快足を飛ばしていた。10代の一時期に、働きながら整った環境でランニングの練習ができると信じて来日したが、丁稚奉公だったことで帰郷。朝鮮で開催されたマラソンや長距離走大会に出場して好記録を出すことで、周囲の援助を受けながら実力を蓄えていった。
快挙達成も悲しい騒動
1935年にベルリン五輪最終予選として行われた明治神宮競技大会で、2時間26分42秒という当時の世界新記録で優勝。五輪本番では優勝候補の1人として世界の注目を集め、その期待通り、アジア人初のマラソン金メダリストに輝いた。
日本にとっても、朝鮮にとっても、世界に誇れる快挙だが、この金メダルをめぐっては、さまざまな騒動が起きている。宝島社新書『日本の金メダリスト142の物語』によると、金メダル獲得のニュースを伝える朝鮮の新聞が、孫の胸の日章旗を消した写真を掲載し、大問題になった。一連の報道に関わった記者らは逮捕され、同新聞は朝鮮総督府から無期限発行停止処分を受けた。当時、孫自身も思うところがあったのか、うつむいたまま五輪の表彰台に上がる写真が残っている。帰国後、凱旋となるはずが日本側は歓迎会を開かせず、孫がヒーローとなることを封じてしまった。
終戦後は後進育成
終戦後の孫は韓国陸連の会長を務めるなど、韓国で後進の指導にあたった。世界に通用するランナーを育て、88年のソウル五輪では聖火ランナーにもなった。同五輪当時の東京新聞記者で、後にプロ野球・中日ドラゴンズの代表を務めた伊藤修は長年、孫と親しく交流してきた。その縁から、中日代表時代に孫を通じて韓国球界に働きかけ、同球界のスター選手だった宣銅烈(ソン・ドンヨル)の獲得に成功。初めて韓国プロ野球から日本球界への道を開き、日韓プロ野球交流に尽力した。
金メダル獲得という偉業を成し遂げながら、日本と朝鮮の間で翻ろうされた孫は晩年、「スポーツと平和」を訴えるイベントにたびたび参加していたという。人生というマラソンは90歳で亡くなる2002年まで走り続けた。現在、日韓関係は冷え込み、朝鮮半島情勢も混とんとしているが、孫の金メダルにまつわるエピソードを知ることは、日韓の歴史を改めて考えるよいきっかけになる。
(mimiyori編集部)