【ラグビー】ワールドカップ=予選プールで去った記憶に残したい国 米国①~アメフト選手多し 元NFLも

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(写真はイメージ:MuddyFox/photoAC)

ラグビーのワールドカップは2019年10月19日から決勝トーナメントを迎える。

予選プールで敗れ去った代表チームには、個性豊かな面々がそろっていた。日本代表の史上初8強進出で歴史に残る今大会、決勝Tに進めずに涙を飲んだ各国代表で記憶に残したい選手をピックアップする。
第2回はスポーツでは世界トップレベルの強豪国でありながら、これまでラグビーは盛んだとは言い難かった米国について。
18年にラグビーのプロリーグ、その名も「メジャーリーグ」が創設され、元フランス代表のマチュー・バスタロー(トゥーロン)が20年からユナイテッド・ニューヨークへローン移籍するなど、将来的に強豪国に成長しそうだ。

 

デビッド・アイヌウ:「アメリカン・サモア出身」…サモアじゃないの?

アメリカン・サモア出身。デビッド・アイヌウの母国は、今大会に出場していた「サモア」とは異なる国だ。

日本で言うところの「サモア」はサモア独立国を指し、「米国領サモア」=アメリカン・サモアはその右にある諸島を意味する。
この米国領サモアはスポーツ界で脚光を浴びたのは、サッカーの02年ワールドカップ日韓大会オセアニア予選。国際大会未勝利の代表は0-31で豪州に大敗を喫したことで話題となった。その後オランダ出身のトーマス・ロンゲン監督が就任したことで14年W杯ブラジル大会同予選では2-1でトンガから初勝利を挙げたことで、映画にも取り上げられた。

デビッド・アイヌウは米国領サモアで育ち、高校まではラグビーとアメリカン・フットボールの二刀流選手。ラグビーは兄の試合観戦に連れて行かれたり、チームのウオーターボーイをさせられたりしたことで一時嫌いになったという。

しかし、ラグビーの実力も高く、年代別代表を経て若手ナンバーワン選手と称され、高校時代は代表チームの練習に参加するまでになった。
18年11月10日の代表デビュー時は19年現在、米国史上2番目の年少記録(18歳355日)。相手は「サモア独立国」だった。

ティティ・ラモシテレ:アメフト出身選手多し

前述のデビッド・アイヌウのように、米国代表にはアメリカン・フットボール出身選手が多かった。
ティティ・ラモシテレも幼少時に地元のラグビークラブで勧められ、13年に競技を開始した。
一方で、高校では陸上競技、そしてアメフトでは花形選手だったという。

ラグビーに本格的に転向後も卓越した運動能力を発揮し、高校代表を経て13年8月、W杯予選のカナダ戦で米国代表史上最年少デビュー(19年現在も史上最年少記録)を果たした。

ポール・ラシケ:元NFL選手

元NFL選手のポール・ラシケは不遇の時代を経て、ラグビーでW杯出場を果たした。

ニュージーランド出身で、幼少期からラグビーを始めた。高校まで母国で過ごし、米国のブリガム・ヤング大で奨学金を得ながらアメフトをプレー。卒業後はNFLのカージナルス、ベアーズでフルバックを務めた。
しかし、17年5月に自由契約となり、しばらく建設現場勤務を経験した。NFLをあきらめた18年1月からラグビーに専念。ユタ・ウォリアーズで主将を務めた後、18季から名門・ハリクインズでプレーした。
しかし、加入前はハリクインズのことをよく知らず、友人に聞いて回ったという。

スレトン・パラモク:NFLドラフトにかかる可能性があった

スレトン・パラモクもアメフトとラグビーを両立していた選手で、14年にはNFLのドラフトで指名されるのではという話もあったほど。
もともとはラグビー一家で、父・Aronaさんはサモア代表主将も務めたレジェンド選手。兄弟のSeta、Toshiも米国7人制代表だ。

本人は16歳の時に兄とラグビーを始め、05年からサモアU19と7人制代表。07年の代表初キャップは、19歳8日でW杯米国史上最年少(当時。19年現在は通算で米国史上3位)という才能の持ち主だ。
アメフトとラグビーの違いはタックルの高低。アメフトの方が低く、大学時代はそのギャップを味わったという。

(mimiyori 編集部)

 

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