【ラグビー】ワールドカップ=日本代表と20日準々決勝で激突! 南アフリカの横顔②~人間山脈ラインアウト

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(写真はイメージ:MuddyFox/photoAC)

ラグビーのワールドカップは20日、日本代表は準々決勝で強豪・南アフリカと激突。日本にとっては15年大会では大金星を挙げた相手で、今大会予選プールで当時世界2位のアイルランドを撃破した勢いで、2大会連続の南ア撃破としたいところ。 7大会連続7度目の出場となる南アは07年大会で優勝を果たし、前回15年大会では3位に入った世界の強豪だ。


今大会のメンバーも俊足の韋駄天、キックの名手など見どころ満載。大一番を前に相手を知れば、さらに日本代表戦を楽しめる。観戦時に「知ったか」できるプチ情報を紹介。

 

LOルード・デヤハー:身長2m超 人間山脈ラインアウト

身長205センチで、現在世界最高峰のLOの1人。ラインアウトが得意で、高すぎるキャッチはさながら人間山脈状態だ。

15年大会でも活躍し、同年は南ア最優秀選手に選出された。19年2月に肩を故障も、W杯代表入り。19-20季からセールシャークス(プレミアシップ)へ移籍が決定している。

歌が上手でラップも得意。サッカーも好きでマンチェスターUの大ファン。プレステのサッカーゲーム、料理も好きという、器用なビッグマン。

LOエベン・エツベス:身長2m軍団の一角/南ア選手史上最高年俸

15年W杯で活躍し、大会ベスト15に選出された。15-16季はNTTドコモでプレーし、遊園地のUSJが大好きで、当時は何度も訪れた。

17年は代表主将。身長204cmで縦への突破力と長い腕を活かしたラインアウトが武器で、ベンチプレスは175キロという圧倒的なパワーを誇る。

19年本大会後はトゥーロン(TOP14)移籍が決定しており、年俸100万ユーロは南ア選手史上最高額と報じられた。

No.8ドウェイン・フェルミューレン:引退後の夢はレストラン

14年世界最優秀選手にノミネートされた世界最高峰のNo8の1人、ボール運びもタックルもパワフルだ。

チーターズ、ストーマーズを経て、15年からトゥーロン(TOP14)、18年からクボタでプレー。19年からブルズと掛け持ち。クボタ移籍発表後、フランスのPRイベントでクボタのトラクターを見て感動したという。ただし、日本の蒸し暑さは苦手としている。

17年はケガで苦しんだが、18年から再び代表でも活躍。19年7月の南半球対抗戦NZ戦では初めて代表主将を務めた。

実家が農家で、ラグビー選手にならなかったら農業をしていたとか。料理教室に通っており、得意。いつかはレストランを開きたいという夢を抱いている。

 

SHファフ・デクラーク:18年ワールドラグビー最優秀選手ノミネート

金髪の長髪をなびかせる。小柄だが、大柄な選手にもタックルする勇敢さを持ち合わせる。
07年16歳でブルズに加入し、14年にライオンズ移籍。17-18季からセールシャークス(プレミアシップ)でプレーし、1年目からチームの年間最優秀選手。英国でキックとゲームマネージメントが磨かれた。

15年代表初招集も、初キャップは16年。17年は南ア代表の方針のため代表招集されなかったが、18年夏にエラスムスHCによる方針撤回で再招集されている。18年はワールドラグビー最優秀選手賞にノミネートされた。

Fafは愛称で本名はFrancois。

SOハンドレ・ポラード:1歳で95年V観戦/敗血症から復活

プレーもハイレベルであり、プレースキックも正確な若き司令塔。年代別代表から活躍しており、13年U20世界選手権優勝、14年ジュニア世界最優秀選手に選ばれた。

14年ブルズでスーパーラグビーデビュー。15年W杯後はNTTドコモで3カ月プレー。16年にヒザの前十字靭帯を損傷し手術、その後、違和感のある肩も手術したが、肩が敗血症にかかり、もし手遅れになれば切断の危機もあったという。9カ月間戦線離脱したが、18年に代表で復活した。19年7月の南半球対抗戦・アルゼンチン戦では31点を挙げて優勝に貢献している。
今大会後は、モンペリエ(TOP14)に移籍予定。年俸約200万ドルは現在の約3倍といわれる。

1歳の時、南ア代表の95年W杯優勝をTVで観戦。本人に記憶はないが「優勝した時にみんな騒ぎ出したから、僕は泣いたらしいよ」。

WTBスブ・ンコシ:100m走10秒台の「新幹線」/ささやきマミーの影響で

100mは10秒59という俊足の持ち主。しなやかなでスピードのある走りで「Bullet train(新幹線)」という愛称で知られる。南ア代表の公式サイトでは「レーザーシャープウィング」と紹介された。本人によると「本能のまま流れに身を任せて走っている」という。ちなみに、走り方はYouTubeの動画で学んだという。

17年、代表入りのチャンスをケガで逃したが、翌18年初代表。19年8月17日アルゼンチン戦で2トライを決め、W杯行きを確実にした。

幼少期は、交通局で働く母Constanceに耳元で「スプリングボクス(南ア代表)になれ」とささやかれ、ずっとそれを夢見ていた。

(mimiyori編集部)

 

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