2004年アテネ、08年北京五輪柔道男子66キロ級を連覇した内柴正人氏は現在、熊本県内の温浴施設でマネジャーを務めている。18年からキルギス共和国の柔道総監督に就任し、19年秋に帰国した後は柔術と柔道の練習をしながら働き、21年7月の寝技による格闘技大会「QUINTET」(後楽園ホール)では軽量級の団体優勝を果たした。
これまで、彼はどんな日々を過ごしてきたのか。内柴氏本人がつづる心象風景のコラム連載、今回は「柔道を指導する思い」後編。
前回は、短いキャリアの中で「自分に合わない」とスタイルを固めてしまっていることはもったいない、という内容について述べた。後編は、指導に当たる上で今の内柴氏が思うことについて。
できなかったことができた原体験を再び味わう
誰しも子供の頃、自転車に乗れるように練習した経験はあるでしょう。授業の水泳や体操、鉄棒の逆上がり、縄跳び。いろんなことを練習して、できた時のあの感覚。
日本一に初めてなった次の日の朝、ほわ〜っと前日のことを思い出して安心するんです。それはオリンピックでも同じ。ゲームで言ったら全面クリアです。ほっとします。
その「ほっとする」ための、幾つもの材料が「技をつくること」。同じ技でも、試合が終わるごとに意識するポイントを変えます。変えた上でまた練り込む。練り込んでいると、「子どもの頃にできなかったことができた瞬間」に出合うのです。それを乱取り、スパーリングで使えるようになるまでには何カ月もかかります。
「合わない」は やらない言い訳
これを知った上で、人にアドバイスをするすると、「いやあ、合わないんです」「自分の柔道と違うんです」。いろいろと〝やらない言い訳〟を聞いてきました。
その人の本当の答えは簡単、面倒くさいんです。でも、強くなりたい。
僕はそのたびに心の中で思ってしまいます。
(それじゃあ、なれないでしょう 苦笑)
「合わないんです」と言われてしまうと、僕は「ふーん。頑張って!」としか言えない。
超一流の人たちは スタイルが違っても 本質は同じ
柔道を勉強し続けてきて出会った人の中に、野村忠宏さんがいます。
この方の柔道に出会った時に、「これが柔道なんだ」という、それまで経験したことことのない感覚に驚いたことがあります。斉藤仁先生がいます。上村春樹先生がいます。この方々の技術の「理(ことわり)」が同じなんです。でも、みんなスタイルは違う。
僕はたくさんの感覚を野村忠宏さんから盗んできました。めちゃくちゃたくさん。同じ技、同じ動き、同じ組手や手の使い方。そっくりそのままマネをして、オリンピックを優勝する過程の中で使えるようになりました。
結果、僕は僕の柔道なんです。できないと決めつけて、できることしかやらないより、自分のスタイルと全く違う物をその人になり切って、マネして使えるようになったとしても、それは自分のスタイルなんですね。
なので、できることだけで頑張ってる選手にはニコニコで「頑張れ!」としか言えないんです。「頑張れ!」って。
人から学び続けた技
僕と同じ時を過ごした先輩たち、後輩たち、才能豊かな選手がたくさんいました。若い頃から将来を期待された人たちでした。でも、ほとんどの人たちがチャンピオンになれなかった。
僕が苦しみながら過ごした練習ばかりの日々、誰かと一緒に過ごしている時に知った良い技術はその人からパクっています。
人に教える時にもこう伝えます。
「この組手は今、どこどこの高校の先生してる高松の技」
「これ、旭化成の時の後輩の大内刈」
「小野ちゃんの大外刈」
「鈴木桂治の小外刈と足車みたいなやつ」
まずはやってみること
韓国背負いは今、やる人が多いけれど、当時社会人1年目の給料をはたいて韓国にまで行き、それを生み出した先生に習いに行ったこともあります。ずっと勝てなかった高校、大学での先輩に勝つために学んだ韓国背負い。これで投げて押さえ込んで一本勝ちしたことは忘れません。
だから、自分のスタイルを5年や10年の短いキャリアで、しかも、低いレベルで固めて欲しくないという気持ちは強くあります。そんな人に限って「I LOVE柔道」と口にしたりする。僕は心の中で、「ホントに⁉」って叫んでいます。
「合わない」はやらない言い訳。まずはやってみること。
これを信じるだけで道が開けるのは確かです。
やっている間はつらいけれど
今、風呂屋になって、毎日ができない作業の繰り返し。何か一つを直せるようになり、やっとのことで修繕すると、なぜか次の修理を報告が舞い込んできます。
修繕で高い部品を使ったり、業者さんを呼んで修理してもらうだけでは、せっかく稼いだ利益もなくなります。
だから、自分で意地でも直す。
きょうは、直し方が分からなかった雨漏りを勉強して修理しました。
屋根工事のプロ・山田さん(重孝=アラバンカ柔術アカデミーの師匠)に聞き、
父に聞き(内柴工業)、
ネットで調べ。
屋根裏にあがり足場板の上でふらつき、屋根に上がり大雨に振られ。
自分の担当の店を守らなきゃという責任感の中、高い所は怖いのに頑張りました。
へたくそだから、体中コーキングだらけ薬品だらけで地上に降り、雨漏りが止まってるのを確認できた時には、やっぱり一つ成長できた喜びがありました。
僕は、チャンピオンの前に内柴正人だから、内柴孝、僕のお父さんの息子だから何でも出来るんだ、俺は俺なんだ!って思って昔から生き続けています。
何にでもなれるのさ。
押忍
(内柴正人=この項目おわり)
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うちしば・まさと
1978年6月17日、熊本県合志市出身。小3から柔道を始め、熊本・一宮中3年時に全国中学大会優勝。高3でインターハイ優勝。大学2年時の99年、嘉納治五郎杯東京国際大会では準決勝で野村忠宏を破って優勝。減量にも苦しんだことから03年に階級を66キロ級へ上げて2004年アテネ五輪は5試合すべて一本勝ちで金メダル獲得。08年北京は連覇した。10年秋引退表明。11年に教え子に乱暴したとして罪に問われ、上告するも棄却。17年9月出所。得意技は巴投げ。160センチ。18年に現在の夫人と再婚し、1男がいる。20年1月から現在の職場に勤務。
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