金メダリストに影響を与えた金メダリストがいる。
というのは現代では定番で、
「北島康介選手が金メダルを獲得するのをテレビで見ていて…」などと金メダリストがインタビューで語ることは珍しくない。
しかし、始まりとなる金メダリストがいなければ、物語の幕は上がらない。
日本で初めて「金メダリストが金メダリストに影響を与えた」のは、今から90年ほど前のことだった。
日本における夏季五輪142個の金メダルについて書ききる本連載、金メダルに憧れてからわずか4年で自らも金メダリストになった1932年ロサンゼルス五輪競泳・清川正二について。
日本水泳界初のメダルに憧れて
1928年アムステルダム五輪で、日本人金メダリスト第1号の陸上・織田幹雄に続いて、第2号となったのは水泳・鶴田義行だった。
その鶴田の金メダル獲得をきっかけに、一念発起した少年が愛知県豊橋市にいた。
当時15歳だった清川正二だ。
清川はまず、学校に水泳部を結成するところからスタートし、本格的に競技を始めた。
自然育ちの泳力
その頃、豊橋には正規の25メートルプールがなかったという。
仕方なく、小学校の頃から慣れ親しんだ豊川という川に仕切り板を立て、プール代わりとして練習したいたそう。
自然な水の流れに培われた泳力は、ただものではなかった。
憧れの金メダルはもちろん表彰台も独占
金メダルに憧れてから4年後の、1932年ロサンゼルス五輪競泳100メートル背泳ぎ決勝。
結末は、清川の金メダル獲得にとどまらなかった。
なんと世界が注目する舞台で、日本人選手・表彰台独占の快挙を成し遂げたのだ。
これは偶然ではない、清川の戦略があってこその結果だった。
それは準決勝の時のこと。
「河津をうまく引っ張って、決勝に残せ」
決勝に残れるかどうかの瀬戸際にいた河津憲太郎を先導する役割が、清川に与えられたのだ。
結果、河津を決勝に残したのはもちろんのこと、さらに決勝でも入江稔夫と河津を先導し、それぞれ2位、3位にフィニッシュさせたのだ。
2021年東京五輪につながる清川の活躍
日本人の表彰台独占は、もちろん初めてのこと。
また初めて見る3人の姿に、子供たちも憧れずにはいられない。
憧れの存在となった清川は、引退後日本代表ヘッドコーチを務め、1969年に国際オリンピック委員会(IOC)の委員にもなった。
79年にはアジア人初のIOC副会長にも就任し、後進の育成・五輪文化の繁栄に一生をかけた。
こうして世代を超えて日本の水泳界、スポーツ界の発展がなされてきた。
2021年東京五輪でも新たな歴史が生まれ、後世に影響をもたらすと期待したい。
(mimiyori編集部)