【五輪金メダリスト連載】虚弱体質に悩まされた男の運命の出合い!柔道からレスリングへ~1964年東京五輪レスリング・市口政光

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)

実績ゼロの柔道からレスリングへの転向が、運命を変えた。


1964年東京五輪で、レスリング・グレコローマンスタイル・バンタム級の金メダリストに輝いた市口政光は、当時では珍しいサラリーマン・アスリートだった。

関西大学在学中に出場した60年ローマ五輪で7位に入り、62年世界選手権で優勝。金メダルが期待される中、大会2週間前に足首を捻挫する災難に見舞われた。それでも冷静な分析と柔道仕込みの技の数々で、世界の猛者をねじ伏せた。

 

金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。

 

 

 The・虚弱体質だった学生時代

幼少期はThe・虚弱体質、金メダルなんて頭をよぎることもなかった。兄弟の中でも最も身長が低く、中学生の時には結核寸前の状態に陥り、1年間病院通いを続けた。 

その後無事に高校に進学した市口は、兄に続いて柔道を始めた。毎日厳しい練習に励むも、体の大きい選手たちに勝つ術はなく、万年控え。高校最後の1試合だけ出場することができたが、引き分けで終わった。 

やはり虚弱体質は克服できないのか…。親御さんや周りの人は、柔道に真面目に取り組んだだけでもすごいことだと考えていたのではないだろうか。

 

 映画館での運命的な出会い

そんな想いとは裏腹に、当の本人は運命的な出会いを果たす。

その場所は映画館。映画本編が始まる前に流れるニュースで、水着を着て取っ組み合っている人たちに目を引かれた。初めてレスリングを見た瞬間だった。

調べてみると、レスリングは階級別の競技、体が小さいという理由で負けることはないことを知る。興味津々の市口は大学でレスリングを始めることに決めた。

 

 2年で経験者に追いつくために猛特訓!

柔道の実績ゼロの状態から、レスリング界へ飛び込んだ市口は、「経験者に2年で追いつく」という目標を立て、練習に取り組んだ。

普通の練習をしていては追いつくことはできない。市口は大学の練習のほかに朝晩自主練習を行い、名門の中央大学レスリング部への出稽古にも出かけ、腕を上げた。

また家業で鉄を扱っていた実家から鉄くずを拝借し、自作の鉄アレイ(ダンベル)を作り、倉庫の屋根裏にロープをかけては、腕力を鍛えていた。

創意工夫をしながら猛練習に励み、予定よりも早く結果が出始める。2年生の頃には団体のレギュラーメンバーに選出され、60年にはローマ五輪に出場を果たした。

 

 柔道経験を生かしたレスリング

武器は柔道のテクニックを生かした投げ技の数々。反り投げ、胸投げ、一本背負いなど多彩な技で、日本選手としてグレコ初出場ながら5回戦まで進んだ。

 

大学卒業後は貿易商社の辰野株式会社に入社し、仕事と競技を両立するサラリーマン・アスリートになった。今では当たり前だが、当時は珍しく、理解のある企業が現れたのも、市口の才能に期待してのことだったのだろう。

 

 世界選手権優勝!目指すは東京五輪

そんな期待に応えるべく、市口は62年の世界選手権で優勝を果たし、日本人として国際大会グレコ初制覇という偉業を成し遂げた。もちろん、全日本選手権は61年から64年まで優勝。五輪の1年半前からは、レスリング王国・トルコから来日したドガンコーチとグレコ・フライ級の花原勉と特訓を続けた。

東京五輪の金メダルはすぐそこまで近づいていた。

 

 虚弱体質に悩まされていた男の快進撃

しかし、本番2週間前に足首を捻挫。逆境に追い込まれたかと思いきや、冷静に戦略を見極め、柔道仕込みの投げ技を連発し5回戦で判定勝ちを勝ち取った。

ライバルたちの結果が出そろったところで、金メダルが確定。虚弱体質に悩まされていた男が、自らの努力で世界一の称号を獲得した瞬間だった。

 

五輪後、市口は辰野株式会社で勤務しながら、一時は休職して米国のコーチも務めた。68年メキシコシティ五輪や72年ミュンヘン五輪では、コーチとして日本代表を支えた。東海大学で教鞭もとり、現在は東海大を拠点とする「東海ジュニアクラブ」の代表として、レスリング少年・少女の指導に当たっている。

(mimiyori編集部)

 

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