極寒の地・北海道で鍛錬した肉体で、世界を圧倒した。
1956年メルボルン五輪の金メダル第1号となったのは、レスリングフリースタイル・ウェルター級の池田三男だった。その数時間後には、笹原正三もフェザー級で金メダルを獲得し、先輩の優勝を肩車で祝った。大会9日目にして、待ちに待った金メダルラッシュとなった。
32年ロサンゼルス五輪の南部忠平(陸上男子三段跳び)以来、2人目の道産子金メダリストの誕生は、北の大地のレスリング熱を沸かせることとなる。
金メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
雪国で海パン一丁!
「体育館の窓の隙間から雪が吹き込み、たびたび畳が白くなった」
北海道・増毛高校で、池田三男と共にレスリングを始めたという佐藤義さんはこう語る。
当時は、今のようなレスリングマットがある訳もなく、ひたすら柔道用の固い畳の上で、身体中に傷をつけながらの練習であった。
さらに冬には、吹き込んできた雪が身も心も凍らせる。
今では考えられないような環境下で、最強のレスリング戦士は立ち上がったのだ。
北海道北西部の小さな漁師町・増毛町は、池田をはじめ、メルボルン五輪で入賞を果たした浅井正・桂本和夫をも輩出したレスリング王国であった。
前述の佐藤義さんは惜しくも五輪出場を逃したが、竹馬の友として池田の優勝時にインタビューに答えたという。
「レスリングの増毛」の栄光
なぜ、「レスリングの増毛」は生まれたのか。
これには中大レスリング部を立ち上げ、初代主将も務めた、松江喜久弥抜きには語れない。
松江は、52年ヘルシンキ五輪で戦後初の金メダルを獲得した石井庄八の“師匠”でもあったという。
そんな松江が増毛町に帰郷すると、体育館の物置に畳を敷き、タックルの真似事を始めた海水パンツ姿の生徒がいたとか。それが池田三男・佐藤義の2人であった。
2人の素質を見抜いた松江は、増毛高校で指導を始め、猛特訓の末に、“愛弟子”の石井が監督を務める中大レスリング部へ導いたのだ。
増毛高―中大が金メダルへの「黄金ルート」となった瞬間だった。
予選から全勝で圧倒!
そして、初の南半球開催となった1956年メルボルン五輪・大会9日目の12月1日。
池田は、ワールドカップ王者のゼンギン(トルコ)などの優勝候補を次々と撃破し、決勝リーグ進出を決めた。
ただし、優勝が告げられた場所はマット上ではなかった。
というのも、決勝リーグまで全勝と圧倒的な強さを誇っていた池田に対し、メダルの行方は他国選手同士の対戦に委ねられたのだ。
池田は、最後の大勝負をすることなく、結果を待ち、ようやく金メダルが決まったのだった。
増毛高も今や兵どもが夢の跡…
プロ野球で、他球場の試合結果によって優勝が決まる瞬間のような気持ちに近いかもしれない。
だが、金メダルは金メダルである。
12月23日に帰郷すると、駅前広場は大勢の町民で埋め尽くされていたとか。鰊凶漁で沈んでいた空気を一気に吹き飛ばすヒーローにもなった。
名選手を輩出した増毛高校だったが、半世紀という年の流れには逆らえず、生徒数の減少により2011年に閉校した。
まさに、「夏草や兵どもが夢の跡」だが、レスリング王国・北海道の復活にはまだまだ期待したい。
(mimiyori編集部)