【五輪金メダリスト連載】日本第1号は〇〇〇で“脳トレ”をした~1928年アムステルダム五輪陸上競技 ・織田幹雄

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三重・伊勢神宮の日本国旗(写真:丸井 乙生)
メダルの数だけ、超人たちのドラマがある。
2016年リオ五輪までに日本が夏季大会で獲得した金メダルの総数は142個。本コラムでは、日本五輪史上初の金メダリストとなった陸上三段跳びの織田幹雄から、日本バドミントン史上初の金メダルを獲得した「タカマツ」ペアまで、すべての五輪金メダリストと、そのメダルに秘められたドラマを紹介する。
いつの時代も、世界一の称号を目指す選手の情熱は変わらない。五輪を制した勇者たちの姿から人生の醍醐味が見える。 
※記事再掲
 
 

織田は「日本陸上界の父」

日本が初めて五輪の舞台で頂点に立ったのは、1928年のアムステルダム大会。陸上の男子三段跳びで15メートル21を跳んだ織田幹雄が制した。この栄誉を称え、地元の広島では「織田幹雄記念国際陸上競技大会」が今も毎年開催されている(2020年は新型コロナウイルス感染拡大のため中止)。

当時は、陸上専門の指導者がいなかったため、すべて独学で鍛えていた。宝島社新書「日本の金メダリスト142の物語」によると、織田が身体だけでなく、頭の鍛錬も欠かさなかったことが明かされ、いくつかあった独特な練習方法の1つに「歌舞伎の観劇」があったとされる。

情報が乏しかった時代の織田の創意工夫は、環境に恵まれ、情報にあふれた現代の人々にとっても生きるヒントになる。現役引退後は記者、教員などを務め、日本陸上競技連盟名誉会長も歴任。「日本陸上界の父」と呼ばれている。

南部は代役でも金

織田が日本初の金メダルを獲得した4年後の1932年ロサンゼルス大会では、同じ陸上の三段跳びを南部忠平が制した。織田と同様に、地元の北海道では功績を称えて創設された「南部忠平記念陸上競技大会」が行われている。

この南部、ロサンゼルス五輪は走り幅跳びの日本代表で、当初は三段跳びに出場する予定がなかった。ところが、ある男の代役として急きょ出場することになり、まさかの世界新記録で優勝してしまったという。

ライバルでもあった“ある男”は、なんと織田幹雄。切磋琢磨する相手に恵まれる幸運や、予想外のことが起きる人生の機微について考えさせられる。

 

田島で三段跳び日本3連覇

織田、南部に続いて、1936年ベルリン大会では田島直人が陸上三段跳びの金メダルに輝いた。しかも、同じ大会の走り幅跳びでは銅メダルも獲得。戦前の日本陸上競技の黄金時代を築いた立役者の1人といっていい。

田島も自身の名を冠した大会が創設され、現役引退後は選手育成に尽力し、64年東京大会では陸上日本代表のヘッドコーチを務めている。金メダリストたちは自身の活躍だけでなく、後進の指導で歴史をつくってきたのだ。
(mimiyori編集部)

 

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