“最後の打席”は古田プロデュースだった
本書の冒頭で、古田敦也は野村氏の人生最後の打席を、実は自身が演出していたことを明かしている。19年7月11日に神宮球場で行われた、球団設立50周年記念の東京ヤクルトスワローズOB戦「スワローズ・ドリームゲーム」。古田、池山隆寛、真中満ら、かつての教え子たちに付き添われながら打席でバットを振った野村氏の姿は、ファンが感動した最後の勇姿となった。古田が語った詳細な秘話から、師弟の絆なくして実現しなかった名場面だったと理解させられる。
知識はピンチを救う
立たされ、怒られ、しつこく根拠を聞かれ、反発することもあったが、最後まで食らいついた。1989年にヤクルトのドラフト2位指名を受けた古田にとって、ちょうど同じタイミングでヤクルト監督を引き受けた野村氏は最適の師匠だった。
「豊富な知識はピンチを救う」
1年目から正捕手に抜てきされ、ベンチで叱責される姿が気の毒になるほどの英才教育を受けてきた古田が野村氏に教えられ、今でも脳裏に刻まれている言葉をいくつか本書で語っている。「最善を見つけ行動すれば、結果は変わる」。どんなに悔しくても、どれだけ反発しても、決して背を向けなかったのは、1つ1つの言葉に説得力があり、苦労してプロ入りした自分以上に、野村氏が多くの苦労を乗り越えてきたことを心の底で感じていたからかもしれない。
「野村監督も苦労されてきた方なので、“生き抜いていかなければならない”という強い意志を持っていた。生き抜くっていうのは、自分の好きなことだけじゃなくて、何が大切で何を求められているかという自分の役割、特徴をしっかり理解すること」
選手会長、監督、キャスター…どの世界でも生き抜く
ヤクルトで日本一を経験し、2000安打も達成して球界を代表する捕手に成長した古田は、労組・プロ野球選手会の会長も歴任。2004年に近鉄とオリックスの合併に端を発した球界再編問題の際は、ストライキ決行を宣言したインタビューで涙を見せるほど奔走した。
南海時代の野村氏と同じプレーイングマネジャーとして注目されたヤクルト監督は現役引退とともに2年で終わったが、現在は野球解説者やキャスターとして活躍中。最近では、取材のために訪れた球場で報道用パスを明示しない“顔パス”が通じず、若い警備員に止められたことをテレビで自虐ネタとして披露し、笑いを誘っていた。野村氏の教えの通り、豊富な知識と経験を生かしながら、野球界にとどまらない広い世界で力強く生き抜いている。
(mimiyori編集部)