【プロ野球】コロナ禍の今こそ考える 「人生」と書いて何と読む~ノムさんに教わったこと 野村克則

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野村克也を最も近くで見てきた息子・克則。2人だけで語り合った「人生」とは。

(写真:たうこ/photoAC)※写真はイメージ

20年のプロ野球が終盤を迎えた。新型コロナウィルス感染拡大の影響で規制の多いシーズンとなったが、セ・パ両リーグの優勝チームが決まり、どうにか完走できそうになったことで天国の“あの人”もホッとしていることだろう。

開幕を待たず、20年2月に亡くなった野村克也氏が健在であれば、コロナ禍で泣き、笑った野球選手たちにどんな言葉をかけただろうか。その答えを、息子は知っている。

 

 

 

 

 

少年野球で泣いた父

野村克則は、73年に野村氏の四男として母・沙知代との間に誕生した。当時は、野村氏が南海の兼任監督として大活躍していた時代。幼少期の克則は親戚宅に預けられていたため、父・克也との同居生活を始めたのは、現役を引退した小学生時代からだった。

 

父として遊んでもらった記憶はほとんどない。多忙で家を空けている時間が多かったため、遊園地はもちろんのこと、キャッチボールの相手をしてもらったことすら数えるほどしかない。

 

 

 

そんな親子に、克則が中学生だった時に転機が訪れた。野村氏が、息子も所属する少年野球チーム「港東ムース」の監督に就任し、父と息子、監督と選手としての時間を共有し始めた。

 

子ども相手でも猛練習を課し、超弱小チームはめきめきと成長した。

立ち上げの翌年夏には全国大会にも出場し、16強まで勝ち上がった。準々決勝進出はならず、選手と父兄一同、神宮球場のロッカールームで泣きじゃくっていた試合後、克則は「野球人・野村克也」の偉大さを見た。

プロを率いて優勝経験のある父までもが「采配ミスだ」と言って涙を流していたという。

 

息子を強くした大学進学のススメ

 

 

 

名門・堀越高―明大と進み、野球のエリート街道を歩んだ克則は、96年に父が率いていたヤクルトに入団。当初は、高卒すぐのプロ入りを希望していたが、父の“采配”が結果的に吉と出た。大学に進学せずプロ入りした野村氏には、あるコンプレックスがあった。

 

「自分は高卒だったから、どうしても大学に行ってほしい。大学に行けば、交友関係が広くなって、プロ野球の世界ですごく有利になる。いろんな意味で大学を出ていた方がいい」

 

この言葉に説得されて明大へ進学し、厳しい野球部で4年間もまれたからこそ、プロに入ってからの重圧に耐えられたのだと克則は分析する。

入団当初は、「父子鷹」として常に話題となり、個性の強い母・沙知代もメディアをにぎわせていた。

格好のネタとされることに押しつぶされそうな時期もあったが、「通ってきた高校と大学のおかげだと思う。そこで頑張ってこられたことが自信になって、精神的に強くなった」。

苦しかった学生時代を乗り越えた経験が大きな支えになった。

 

「人生ってどう読むんだ」

 

 

 

 父を超えるようなスター選手にはなれなかった。しかし、ヤクルトを含めた4球団でプレーし、現在の楽天を含む3球団でコーチとして指導している克則は、父にとっていつも自慢の息子だった。その父が、息子に問いかけたことがある。

 

「人生ってどう読むんだ」

 

野村氏は、息子と人生について語り合うことがよくあったという。

その中で「人生」という言葉には、「人として生きる」、「人を生かす」、「人に生かされる」などさまざまな意味合いがあることを教わった。さらに、「やっぱり自分は人に生かされている、決して自己評価で生きているわけじゃない」と息子に教え諭すように語っていた。

 

「人生ってどう読むんだ」

 

 

 

人と人が距離を取ることを余儀なくされ、生きる上で人とのつながりの大切さを思い知らされたコロナ禍の今だからこそ、この問いかけは余計に心に響く。困難な状況に耐える日本全体に問いかけているようにも聞こえる。

 

詳細は「証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと」(宝島社)で。

(mimiyori編集部)

 

 

 

 

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