「遠山―葛西―遠山」で一世風靡
「遠山―葛西―遠山」。2000年にプロ野球で一世を風靡した阪神の継投策を、当時の野村は「弱者の兵法」と語っていた。左打者へのワンポイントとして登板し、次が右打者であれば一塁に残って、その後の左打者に備える。この変則リレーの中軸を担った遠山は、それまでに紆余曲折を経た苦労人だった。1985年にドラフト1位で阪神に入団したものの、91年にロッテへトレード移籍。そのロッテでは投手から野手への転向を余儀なくされ、97年には戦力外となった。すでに30歳になっていた98年に古巣・阪神へテスト入団した実績のない左腕が、野村のひと言から一躍「松井秀喜キラー」となるまでの経緯の詳細を本書で語っている。
適材適所の象徴
「左打者のインコースにシュートを投げられるか」
野村からの問いかけに対して首を縦に振り、求めに応じようとがむしゃらに努力したことから、遠山のワンポイント起用は始まった。結果が出れば、指揮官の信頼は増し、再び重要な場面で送り出される。しかも、左打者1人でベンチに戻すのは惜しいから、一塁も守る。投手、野手の両方を経験してきた遠山だからこそできた、まさに適材適所の役職。遠山本人にとってはコンプレックスであっただろう“回り道”を長所に変えた手腕は、監督・野村の真骨頂といえる。
遠山が求めに応じてくれたからこそ成功した奇策だったから、野村もよほどうれしかったのだろう。抑えてベンチに戻れば、おなじみの低い声で「ナイスピッチング」とねぎらわれていたという。
名門・浪速高校を野村野球で再建中
野村再生工場によって活躍の場を見出された遠山は、19年11月から大阪・浪速高校野球部の監督を務めている。浪速は、春の選抜大会に91年、01年の2度出場した実力校だが、近年は予選から苦戦を強いられている。強豪の再建が大きな使命である遠山の指導の“肝”となっているのが、野村に教わった「基本」。「基本ができなければ、とっさの動きはできない」。野村野球とは、魔法でもなければ、突飛なものでもなく、基本を忠実に守り続けることであると思い知らされる。
(mimiyori編集部)