2021年3月28日、DDTプロレスは後楽園ホールで「Judgement2021〜DTT旗揚げ24周年記念大会〜」を行う。
DDTは1997年の旗揚げ以来、路上プロレスシリーズとエンターテインメント型プロレスを作り上げてきた。旗揚げ当初は知名度も低く、100人ほどしか観客が集まらなかった零細企業ならぬ零細団体は四半世紀を生き抜いてき。この団体はこの男抜きには語れない。
株式会社CyberFight(DDTとノア・グローバルエンタテインメントが合併)の代表取締役社長・高木三四郎は「マンネリが嫌い」、17年には一足早く無観客試合も行っていた。先見の明しかない高木の人生=プロレスに迫る。
第1回はDDTの代名詞「路上プロレス」について。
プロレスは人生であり生き様ゼア!
今プロレスが熱い。
というのも、まもなく最終回を迎える某ドラマの影響により、筆者の中で、いや今までプロレスに何ら興味を持っていなかった人々の間で、プロレスの好感度が急上昇中なのだ。
プロレスにうとい筆者でも存じ上げている長州力がいい味を出し、NG連発をしているという長州の「尻ぬぐいをしに」(武藤)武藤敬司、蝶野正洋も本人役で出演するなど盛り上がっている。
その武藤が所属する団体「NOAH」を運営する株式会社CyberFightの代表取締役社長が高木三四郎。エンタメプロレスのパイオニアとして、日本のプロレスビジネスを牽引するまでになった。
「プロレスは人生であり生き様だ」と語る彼の人生はほとんどプロレス、つまり人生。
一周回ってしまったが、それほど高木がプロレスを、人生を謳歌しているということ。
だが、その始まりは華々しいものではなかった。
97年DDT旗揚げ 1年目は100万円の赤字
1997年、DDTプロレスの旗揚げに参画した。と言えばかっこいいものの、本音は「やめてくれよ」と巻き込まれた被害者のような気分だったとか。
95年2月にプロレスデビューも、97年に所属していた団体PWCがつぶれた。「ああ、やっと辞められる」と思った矢先、一緒にやっていた2人のレスラーがあきらめられないから一緒にやろう!!と話を持ちかけてきた。
DDTを立ち上げてからは、知名度もない、集客もままならない、まさに苦労の連続だった。チケット代は3000円と格安ながらも、約250人収容の北沢タウンホールに100人ほどしか集まらない。2回興行をしても50万円のマイナス。1年間で100万円のマイナスとなった。最初の何年かは、高木はギャランティーをもらっていなかったという。
趣味もプロレスと豪語する高木だからこそ、苦難を乗り越えてこられた。DDTの観客動員は2009年から右肩上がり、15年には当時過去最高を記録した。
エンタメに先見の明! 代名詞「路上プロレス」
旗揚げ当初は格闘技の流れをくむスタイルだった。しかし、試合の激しさと集客数とが必ずしも一致しないことは当時から気づいていたという。
多くの人に見てもらうには、どうすればいいのか。身長180センチ以上の大男がそろうメジャー団体に対抗するには、何をすればいいのか。
高木はアイデアで勝負した。クラブでプロレス大会を開催することで、「女子高生が見るプロレス」としてメディアで話題になった。さらに、どんな場所でも試合を行う「路上プロレス」を打ち出した。リング上ではなく街角、家の中など「いつ、何時、どこででも戦う」もので、書店、キャンプ場、海、商店街、工場、ホームセンターなどさまざまな場所で開催してきた。
東京ドームのマウンドで⁈ ブルペンで⁈ スタンドで⁈
08年にはリーマンショックで客足が遠のく中、両国国技館で興行を行うまでに成長。17年6月には東京ドーム大会を敢行した。と言っても、いわゆる東京ドーム大会ではない。「東京ドーム内路上プロレス」、しかも ワンマッチ「高木三四郎VS.鈴木みのる」で臨んだ。
無観客とした東京ドーム全域を”リング”とし、2人だけで縦横無尽に戦うさまは、ネット中継で発信された。当時は現在のようにネット中継が当たり前ではない時期で、業界では先進的な手法でもあった。
プロレス団体による東京ドーム大会開催は全日本プロレス、新日本プロレス、NOAHのいわゆる“メジャー団体”が行ってきたが、DDTの東京ドーム進出は画期的であり、敗者がリングではなくホームベース上に倒れる姿も新鮮だった。
(つづく=五島由紀子 mimiyori編集部)
※これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラムです。
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