【経営哲学】稲川素子社長 専業主婦から外国人タレント事務所の社長へ 人生100年時代を生き抜くヒント③

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(写真:photoAC)※写真はイメージ

これまで番組などで直接取材した経営者のかたの哲学についてまとめたコラム。今回は「稲川素子事務所」を運営する稲川素子社長について紹介する。

人生100年時代が到来した。「人生100年時代に人は80歳を過ぎても働く必要がある」とする経済学者の試算もあるが、すでに力強く実践している元専業主婦の女性創業者がいる。経営のノウハウがまったくないまま50歳で事務所設立。70歳で慶応大学を卒業し、72歳で東大大学院に入学した稲川素子は、86歳となった今やのべ145カ国以上、5200人以上のタレントを抱える芸能事務所社長。ピンク色の衣服に身を包み、華やかな世界をまい進しているようでいて、実は泥臭く地道な努力や、外国人タレントを扱う経営者ならではの苦労があった。

 

 

 

平均睡眠時間は2時間のスーパー80代

仕事に追われ、就寝時間は毎日2、3時。時には午前5時や6時になることもある。午前8時には各方面からの電話が鳴り始めるため、睡眠時間が取れるのはそれまで。連日、事務所スタッフは午後7時に退社するため、その後の作業は稲川自身が行っている。

「とても眠いけど、眠ったらいけないから寝ないだけよ」

10代には「残り4カ月の命」

80歳を超えているとはにわかに信じられない体力だが、若い頃は“余命宣告”されるほどの虚弱体質だった。高校に入学した頃に原因不明の極度の貧血に襲われて、体力が激減。すぐに息切れをして階段を上がることすらままならなくなり、入退院を繰り返した。青ざめた顔をしていた当時の体重は30キロ台。主治医の医師らが診察後に、「あの子はあと4カ月でしょうね」とひそひそ話すのが聞こえていた。また、盲腸の手術を受けた際の医療ミスで、19歳の時に右半身が不随となった。現在でも右手の感覚はほとんどない。この影響で、当時通学していた慶応大学は中退した。この時の無念は、事務所社長となった中年以降に怒とうの勢いで晴らしていくことになる。

65歳で慶大に再入学

 

 

 

仕事に多少の余裕ができた99年4月、自身65歳の時に慶大文学部に再入学して、ドイツ文学を専攻した。夫の長康さんも慶大(工学部)卒だったこともあり、こだわりはあった。在学中、卒業論文の指導が受けられるかが決まる大事な試験の前日に、仕事上のトラブルで社長としての後始末に追われ、自宅に戻ったのが深夜0時だったことがある。勉強しなければ、と思う反面、強烈な眠気に襲われたため、朝鮮人参と栄養剤を大量に摂取。夢中になって勉強し、気づいた時には試験開始30分前の午前9時。タクシーに飛び乗って試験会場に入った時には、すでに答案用紙が配られていたが、何とか合格して、同大を70歳で卒業した。

72歳で東大大学院に進学

慶大で仕事と勉強の両立の過酷さを思い知らされていたはずが、卒業後、仕事で外国人のビザを取得する中で、日本の入管法とその実態との矛盾が気になり、大学院で学びたいと思うようになる。06年4月、3度目の正直で東京大学大学院に合格した時は、すでに72歳。入学式の直後、三四郎池で思わず「万歳!」と叫んだ。

少女時代は同じ東大でも東大病院で入退院を繰り返し、自分の命はあとわずかしかない、と悲観して三四郎池で泣いていたという。その少女が70歳を過ぎるまで(実際は80歳を過ぎるまで)生き延び、しかも学生となった東大に戻ってこられたことは、稲川にとっては人生最良の日となった。その東大大学院では08年3月には修士課程を修了し、同年4月に博士課程へ進学。16年に晴れて卒業した。

 

勉強は心の栄養剤

 

 

 

事務所社長としての稲川は、自己主張の強い外国人と、あいまいな日本人とのあつれきに、ほとほと疲れ果てている。決して全員ではないが、外国人の多くは言うことを聞かず、義理も通じず、親切にしてあげても勝手なことをする。最初はこれが心底つらかったという稲川にとって、勉強は“心の栄養剤”なのだという。

「人って、何かしてもらったことを覚えておくことはできるんです。でも、相手にしてあげたことを水に流すのは難しい。これは自分で自分を律して、心の訓練をしないとなかなか身につかない。そのためにも、勉強することって大切なんです」

好きな言葉は「一途、ひたすら、精一杯」

東大大学院の博士課程在学中、日本における入国管理政策の変遷と課題をテーマに研究を行った。果たして自分ができるのであろうかと思案したが、口癖である「自分のやっていることをゆめ疑わず、決して疲れず、断じて休まない」を信条に、博士論文を書くことにまい進した。

「これから先の残された人生の中で、たとえそのような苦境に遭遇しても、そこに一筋の光を見出し、希望とつなぎ、いつかまた心をときめかせながらその道を一途ひたすら歩んでいきたい」

稲川素子の生き様には、人生100年時代を生き抜くヒントが散りばめられている。
(おわり=mimiyori編集部)

 

 

 



稲川素子(いながわ・もとこ)
1934年1月18日、福岡県生まれ。85年、自身が50歳の時に稲川素子事務所を設立し、現在では世界147ヵ国、のべ5200人以上のタレントを抱える会社へ成長。04年、自身が70歳の時に慶応大学文学部卒業。後に3度の挑戦の上、東大大学院総合文化研究科へ72歳で入学し修士課程修了、博士課程へ進学し、16年に卒業。14年1月から地球環境芸術文化推進機構理事長。国際知識普及協会代表理事、日本アカデミー賞協会会員、河口湖オルゴールの森美術館館長なども務める。好きな色はピンク。娘・稲川佳奈子さんはプロのピアニスト。

 

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