新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響で、東京五輪とともにパラリンピックも1年延期となった。
1960年に第1回パラリンピックがスタートして以来の非常事態だが、こんな時こそ偉大なる先人たちの活躍を知り、未来に目を向けるべきではないだろうか。
64年東京大会に出場した日本のレジェンドたちを紹介する。第1回は卓球の渡部藤男氏。
※記事再掲
日本のパラ金メダル第1号
64年東京大会では日本人初のパラリンピック金メダリストが誕生した。
卓球の男子ダブルスC級を制したのは日本代表の渡部藤男氏。パートナーの猪狩靖典氏とともに、初めて世界の頂点に立った。
同氏は22歳だった62年に、トラックの積み荷を下ろす作業中の事故で脊髄を損傷。下半身が不自由となり、車いすユーザーになった。
郷里の福島県で入院中の病院にやって来た医師が卓球好きだったことから、63年にリハビリの一環として卓球を開始。当初はパラリンピックの存在すら知らなかったが、卓球に熱中してすぐに実力を伸ばし、1年後のパラリンピックの日本代表選手団に加入した。
救急車で福島→東京移動
現在のようなバリアフリー化が進んでおらず、車いすの利用者は移動に苦労していた時代。
大会出場のため福島から東京へ移動する際は、病院の救急車に車いすごと乗せられて運ばれたという。
その車いすも、病院の備え付けのもので、小回りがきかず、卓球をやっていて転ぶこともあった。
欧米選手が試合で乗車していたスポーツ用のものとは似ても似つかなかったが、そのまま卓球のダブルスに出場することになった。
決勝でパラ源流の国を撃破
病院の仲間だった猪狩氏とは東京大会直前にペアを結成。
決勝ではパラスポーツの先進国ともいえる英国のスウィンドルハースト、ギブソン組を破った。同大会では、これが全競技を通じて日本唯一の金メダルとなった。
その決勝だが、試合の観戦を希望していた国民が多かったにもかかわらず、会場となったのは代々木第1体育館のアリーナではなく、南口ホール…。折りたたみいすわずか50脚という「応援席」からの声援を受けての快挙達成だった。
1964年東京が日本のパラ原点
大会後の渡部氏は横浜で病院事務の仕事につき、忙しい日々を送ってきたため、本格的なスポーツはできなかったという。
退職した50代からは障がい者団体で活動し、アームレスリングやボウリングの試合に出ていた。
2016年リオ大会では岩渕幸洋、吉田信一、別所キミヱらが日本代表として活躍した。その原点は64年東京にあった。
(mimiyori編集部=②につづく)