【プロ野球】始まりは「ようかん」~球宴MVP賞品の変遷

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2020年オールスターゲーム第2戦が行われる予定だったナゴヤドーム

(写真:photoAC/旅太郎)

プロ野球の「祭典」とも呼ばれるオールスターゲームが史上初めて中止となった。 開幕が延期され、セ・パ交流戦も中止になり、2020年で70回目を迎えるはずだった球宴まで見られなくなって気落ちする野球ファンのために、ちょっとした球宴歴史を紹介したい。

2019年まで、ここ数年は最優秀選手(MVP)に賞金300万円が贈られている。 この賞金狙いで張り切る選手は多いが、かつては賞金ではなく、その時代の高級品が授与されていた。誰もが憧れて羨んだ賞品の変遷に、時代の移り変わりが見える。

 

神様が自転車と和菓子をゲット

1951年に行われた第1回オールスターゲームの第1戦で初のMVPに輝いたのは、「打撃の神様」として知られる川上哲治(巨人)だった。獲得した賞品は、なんと自転車とぶどう酒と和菓子のようかん。ちなみに、プロ野球が2リーグ制になる前に行われていた現在の球宴の前身である東西対抗戦でも、川上は48年に表彰選手に選ばれているが、賞品は鮭とタオルだった。戦後間もない時期で、食料や物資が不足していた当時の世相を反映している。

大量のフランスパンに困惑

59年の第2戦MVPだった中利夫(中日)は、受賞式で手渡された賞品に困惑した。授与されたのは「バゲット」と呼ばれる細長い棒状のフランスパン。両手いっぱいに抱えるほどだったから、20~30本はあったと記憶している。

今でこそバゲットは日本人にもおなじみだが、当時プロ5年目の中にとっては未知との遭遇。「それまでフランス料理もフランスパンも食べたことなかったし、そもそも、とても1人で食べられる量じゃなかった。うれしかったけど、自分では食べずに、宿泊していた旅館の人たちに差し上げましたよ。あの時代はね、賞品が“豚1匹”なんて試合もあった」と笑いながら振り返る。

大物助っ人が小型車に大喜び

60年代に入ると、球宴MVPには賞金と副賞が贈られる形式が定着した。副賞の主流が、当時の日本人にとっては最高級品だった自動二輪車や四輪車。中日球場で行われた64年の球宴では、MVPのジム・マーシャル(中日)が軽自動車を獲得した。

マーシャルといえば、「日本プロ野球初の現役メジャーリーガー」。十分なキャリアを誇る大物助っ人だったが、それでも異国で出場した球宴の賞品がよほどうれしかったらしく、試合が終わると「この車で球場に通う!」と言い始めた。当時のマーシャルは、名古屋ではホテル住まいで、日本の自宅は東京にあった。そこで、軽自動車は都内の自宅に置き、後楽園球場や神宮球場で試合のある日は、身長180センチを超える大きな体を小さな車に押し込み、自分で運転して通ったという。

80年代から家電時代

80年代以降、日本社会の発展とともに「一家に車1台」が当たり前の光景になってくると、スポンサー企業との関係もあって、賞品は家電が主流となった。89年に球宴初出場でいきなりMVPを獲得した彦野利勝(中日)は、賞金200万円と副賞に大型テレビを含む家電一式をゲット。同年オフに結婚したこともあり、「本当にありがたかった。新居に使わせてもらったよ」と素直にうれしかったことを覚えている。

90年代も急速に発達していく時代を反映して、副賞はノート型パソコン、デジタルハイビジョン液晶テレビ、デジタルムービーカメラ、ノンフロン冷凍冷蔵庫など。2000年に入ってもこの流れはしばらく続いたが、08年からは副賞が消えて、賞金だけとなった。

時代がリセットされる来年は?

「その昔、電化製品が賞品になったばかりの頃は、ベンチでも『欲しい!』と選手の間で話題になっていた。今とはちょっと違うのかな…」

61年前のMVPに輝き、球宴出場6回を誇る中は懐かしそうに、それでいて少し寂しそうに話していた。球宴の賞品の歴史を知ると、日本人の生活とプロ野球界が豊かになったことを実感する一方で、飽食の時代に入っていたことも否めない。ウィルス感染の影響で思いがけず中止となった球宴が、これからの新しい時代にどうリセットされるのか注目していきたい。
(mimiyori編集部)

 

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