【プロ野球】応援歌の元祖は中日だった?

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新型コロナウイルス感染拡大の影響でプロ野球の開幕が延期。プロ野球ファンとしては、早く球場で応援歌を歌える日が来ることを願っています。 (写真:photoAC/流浪のマサじぃ)
NHK連続テレビ小説「エール」の放送が始まった。主人公は、「オリンピック・マーチ」や高校野球でおなじみの「栄冠は君に輝く」などで知られる、作曲家の古関裕而(こせき・ゆうじ)がモデルとされる。古関は、阪神の「六甲おろし(阪神タイガースの歌)」や、巨人の球団歌「闘魂こめて(巨人軍の歌)」を作曲したことでも有名だが、中日の応援歌も作っていたことまでは、あまり知られていない。しかも、古関が曲を手掛ける以前から中日には他球団に先駆けた応援歌があり、プロ野球応援歌のルーツとなっていた。
 

人気の「燃えドラ」は元祖ではない

中日の応援歌といえば、すぐに「燃えよドラゴンズ」(作詞作曲:山本正之)が頭に浮かぶ。1974(昭和49)年にラジオで発表されると同時に名古屋を中心とした東海地区では大ヒット。中日OBでもある板東英二が歌った初代版のレコードは完売するほどの人気で、その後は歌詞の選手名や歌い手を変えながら、今もファンや選手の熱気を高めている。

1936年に「名古屋軍応援歌」誕生

現在、セ・パ両リーグどの球団でも応援歌、球団歌は当たり前だが、一説では、応援歌第1号が野球草創期の中日球団だったとされる。中日ドラゴンズの前身である名古屋軍が結成されたのは36(昭和11)年1月。巨人、阪神に次ぐ3番目の球団だが、同年3月19日付の地元紙、新愛知の夕刊には「名古屋軍のため我が国最初の職業野球応援団として『名古屋軍応援団』を結成する」という内容の記事が掲載されている。その時に「名古屋軍応援歌」が作られ、3月19日の応援団発会式で披露されたという。

作詞は、親会社でもあった新愛知新聞社(現中日新聞社)の当時の学芸部長、作曲は当時の東海ブラスバンド連盟常任理事だった。「投げよ剛球、打てよ堅棒~」といった勇ましい歌詞だったが、曲調は不明。この応援歌を初めての公式戦、名古屋軍―大東京の試合でブラスバンドが演奏して盛り上げ、名古屋軍は歴史的勝利を挙げたとされる。

六甲おろしよりも6日早かった

現在も歌われている阪神の「六甲おろし」も、同年3月に、佐藤惣之助作詞、古関裕而作曲で「大阪タイガースの歌(61年に『阪神タイガースの歌』に改名)」として誕生した。初めて披露されたのが3月25日だったため、19日発表の名古屋軍の方が早かったとされる根拠。しかし、歌のインパクトは現代まで歌い継がれている六甲おろしの方が強かったようだ。

この流れを無視できなかった巨人も39年に応援歌を発表する。阪神の六甲おろしと同じ佐藤、古関の作詞作曲でつくられたのが「巨人軍の歌(野球の王者)」。49年には2代目「巨人軍の歌」がつくられ、現在の東京ドームで流れる「闘魂こめて」は3代目応援歌として62年に古関の作曲で誕生した。

古関作曲の中日応援歌はヒットしなかった

中日は戦後に歌詞を一般公募し、50年に古関の作曲で「ドラゴンズの歌」を発表した。「イヨマンテの夜」、「山のけむり」などのヒット曲で知られる歌手の伊藤久男が歌い、レコード化までされたが、大ヒットとはいかなかった。ドラゴンズのファンが応援歌で本格的に盛り上がるようになったのは、さらに20年以上も後の「燃えよドラゴンズ」になってからといえる。

今の日本プロ野球では全12球団がオリジナルの応援歌や球団歌を誇り、古風な雰囲気のものから、ポップなものまで、曲調はさまざま。横浜や現在のDeNAでは、選手がコーラスに参加することで話題になった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、今季はプロ野球の開幕が大幅に遅れている。無観客でオープン戦を行ってきた監督、選手らは、応援歌が球場に鳴り響くありがたみを痛いほど感じているに違いない。

(mimiyori編集部)

 

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