今季はDeNAからタンパベイ・レイズに移籍した筒香嘉智は、新天地での開幕を迎えられないまま、日本に一時帰国したという。この筒香をレイズで指導するコーチの1人が、オジー・ティモンズ一塁ベースコーチ。2001年に中日ドラゴンズに在籍し、4番打者としては期待外れに終わった助っ人が、現在はレイズの名物コーチになっていた。
メジャー経験者なのに若手扱い
主砲としてはまったくダメだった。当時30歳のティモンズは、01年に中日に加入。不動の4番だったレオ・ゴメスが前年限りで退団したため、その後任として期待された。
ところが、4番なのに開幕からわずか8試合目でスタメン落ち。メジャー経験のある外国人選手としては異例ともいえるシーズン中の早出特打を課せられた。
それでも浮上するきっかけをつかめず、「バントのケースもあるから」と試合前にバント練習を命じられたこともある。夏場にはふくらはぎの故障で、2軍落ちの屈辱も味わった。
前4番を呼び戻した男
業を煮やした中日球団は、開幕直後からゴメスに対して復帰を要請した。
「家族との時間を大切にしたい」と現役引退したはずのゴメスだったが、同年5月にはドラゴンズに復帰。翌02年まで主砲として再び活躍した。
一方のティモンズは「ゴメスを呼び戻した男」とのレッテルを張られたまま、1年限りで退団している。
自ら残留を断り退団
日本での成績は、83試合に出場して打率2割2分8厘、12本塁打、45打点。物足りない数字ではあるが、球団内の一部では「残留させてはどうか」という声も上がっていた。
特打ちやバント練習を命じられても文句ひとつ言わず、「チームに貢献したい」と愚直に取り組んでいた姿勢が、日本人スタッフらの心を動かしていたらしい。
実際に契約更新の打診もあったが、ふがいない成績に終わったティモンズの方が責任を感じて残留を断った。
中日のスローガンがモットー?
米国に帰国したティモンズは、マイナーリーグ、メキシコリーグ、独立リーグなどを転々とし、再びメジャーでプレーすることなく06年にひっそりと現役引退した。
なんとなく寂しい結末だが、実は、“オジー物語”は終わっていなかった。07年には、かつて選手として所属していた古巣レイズのマイナーチーム(1A)のコーチに就任。現役時代にモットーとしていた「いつでもハードプレー(全力プレー)」を若い選手たちに説き続けた。
「自分もそうやって教えられてきたから」
ちなみに、ティモンズ在籍当時の中日のスローガンは「HARD PLAY HARD」だった。
腕立て伏せで有名一塁ベースコーチに
選手として苦労したからこそ、選手育成に能力を発揮したのかもしれない。まじめで優しい性格も功を奏して、数年ごとにレイズの2A、3Aコーチに昇格。17年11月にはメジャー昇格が決まり、レイズの「第7代一塁ベースコーチ」になることが発表された。
一塁ベースコーチは「グラウンドで最も無名な存在」とされるが、地元紙タンパベイ・タイムズによると、メジャーリーグでティモンズほど有名な一塁ベースコーチはいないという。
というのも、試合のイニングの合間に、ベンチ内で行っている腕立て伏せがチームの名物になっているから。18年にチームが貧打で泣いていた時期に、ティモンズが選手らを鼓舞しようと「得点したら、俺が腕立て伏せする」と1得点につき、10回の腕立て伏せをイニング終了時に行うことを約束。実際に始めたところ打線は勢いづき、スタートしてから2カ月後に中継のテレビカメラが気づいたことで全米に知れ渡った。
ベースコーチなのに応援団がいる
試合前には一塁側のファンと気軽におしゃべりをし、試合中でもイニングの合間に戦術の説明をしてくれることなどから、人気に拍車がかかった。現在ではティモンズの応援ユニホームを着用したファンが一塁ベース近くに陣取り、ティモンズの応援歌を合唱しているという。
意外な形でメジャードリームをかなえたティモンズが、2020年から筒香もサポートすることになった。すでに2月のキャンプでは守備練習のための内野ノックを担い、早く新天地に慣れさせようと助言もしている。
18年5月末から始まった腕立て伏せは1万2000回を超えている。筒香のバットがティモンズコーチに何回の腕立て伏せをさせるのか。今から開幕が待ち遠しい。
(mimiyori編集部)
オジー・ティモンズ(Ozzie Timmons) 1970年9月18日生まれ、米国フロリダ州出身。ブランドン高―タンパ大から、91年にドラフト5巡目でシカゴ・カブスに入団。95年にメジャー初昇格。レッズ、マリナーズ、デビルレイズなどを経て、01年に中日ドラゴンズに加入。18年からタンパベイ・レイズの一塁ベースコーチを務めている。メジャー通算成績(5年)は打率2割3分5厘、20本塁打、60打点。