【プロ野球コラム】中日・高橋周平のブレークに見る プロ野球選手の”ゆるキャラ”時代

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ドラフト当時の高橋周平(写真:日刊スポーツ/アフロ)

19季から中日ドラゴンズの主将を務める高橋周平が花開いた。19年5月には、日本タイ記録となる月間8度の猛打賞を記録。右手小指のじん帯を痛めて一時は戦列を離れたが、シーズン終盤も好調を維持して打率.293、セ・リーグの打撃8位でシーズンを終えた。

 

 

森野の再来?

中日・高橋周平は2011年のドラフト1位(冒頭写真)。
東海大甲府高から鳴り物入りで入団しながら、プロ8年目で開花する遅咲きぶりは、96年に同系列の東海大相模高からドラフト2位で中日入りした森野将彦(現中日2軍打撃コーチ)と重なる。 

ドラゴンズの元ゆるキャラ

入団当初の高橋について、中日の大野雄大は「チームのゆるキャラです」と紹介していた。
野球の才能や潜在能力は誰もが認めるところだが、1軍では結果が出ない。
当然、出番は限られるから、ベンチで応援している時間の方が長くなる。期待が大きい首脳陣からの当たりはきついが、あまり言葉を発さず、動きもスローに見えてしまう。
ゆるキャラといえば、チームを応援しているドアラと同等だから、仲間に愛されていたことは想像がつく。 

「覇気がない」で2軍落ち

90年代に言葉こそ生まれていなかったが、森野もかなりのゆるキャラだった。
プロ1年目の97年8月29日ヤクルト戦で、プロ初安打を本塁打で決める華々しいデビューを飾ったが、その後は鳴かず飛ばす。
言葉数が少なく、長いまつげとすこし垂れた大きな目が目立つ童顔も災いしてか、首脳陣からは「覇気がない」と怒られ、1、2軍を行ったりきたりする日々が続いた。
1軍の試合前に「足腰を強くしろ」と、森野だけが四股を踏まされていたこともある。 

チビッコから「使えない」

ファンとの距離が近い2軍本拠地のナゴヤ球場では痛烈なヤジが耳に届いたはず。
森野が特に心を痛めたのは、まだ野球も始めていないであろう幼い少年の一言。
「モリノは使えないよ~」
よく聞けば、それは自分のことではなく、当時流行していた、各球団の同姓同名選手が登場するゲームのことだった。

「僕ね、自分でゲームをやってみたんです。そうしたら、モリノは本当に打たない。セカンドゴロばっかりで。あれじゃ、確かに使えない」

現実の自分をほうふつさせるキャラ設定にため息をついていた森野だが、ふて腐れることはなかった。
入団時に7で始まった背番号を8→16→8→31→30→7と何度も変更させられても、文句一つ言わずに従った。
遊撃手としてプロ入りしながら一、二、三塁、さらには外野も守った。 

 

猛ノックで失神

転機は、落合博満監督が指揮を執っていた06年。
プロ入り10年目のシーズンに、立浪和義から三塁のレギュラーを奪い、初めて規定打席に到達した。
同年2月の沖縄・北谷キャンプでは連日、三塁の守備位置で同監督の猛ノックを受けている。

「水、飲んでもいいんだぞ!」
「限界だと思ったらグローブを外せ!」
「嫌だったら名古屋に帰れ!」

容赦なく浴びせられる罵声に耐え、3時間近いノックで失神して頭からバケツで水をかけられ、それでも一度もグローブを投げ出さなかった根性は、クールな落合監督の心を射抜いていた。

 

大人になって野球を終われた

その後、同監督のもとで4度のリーグ優勝と1度の日本一に主力として貢献。現役引退する17年まで、21年間のプロ生活を駆け抜けた。

「高校からドラフトで入って、少し大人になって野球を終われた。成長したかなと思います」

通算成績は1801試合、1581安打、打率2割7分7厘、165本塁打、782打点。
名球会には入れずとも、10年に三塁でベストナイン、14年には一塁でゴールデングラブ賞と、生きるために万能型を受け入れた森野らしい足跡を残した。 

ビバ、ゆるキャラ時代

ゆるキャラは見た目のかわいらしさと対照的に、演じることは難しく過酷。
しかし、周りの期待に応えるために厳しさに耐え、役割をこなせれば反響は大きい。
森野や高橋に限らず、ゆるキャラ時代は実は誰にでもある、人としての成長に必要な大事な時期なのかもしれない。
(砂田 友美)