ラグビーのワールドカップが開幕した。日本初開催となる同大会の盛り上げに、開幕直前までTBS系列で放送されていた池井戸潤原作のラグビードラマ「ノーサイド・ゲーム」が一役買った。
元日本代表の廣瀬俊朗ら、登場する選手役のほとんどが本格的なラグビー経験者だった。
その中で、チーム唯一の日本代表である里村亮太役を好演した元ラグビー選手で俳優の佳久創(かく・そう)は、かつて中日ドラゴンズで守護神として活躍した郭源治の次男。「佳久」は郭が日本国籍を取得した時に登録した姓で、筋肉質の長身と端正な顔立ちは、現役時代の父親をほうふつとさせる。
父・郭源治が残した数々の伝説を振り返る。
父・郭源治伝説~所持金は数千円
台湾のアマチュア球界から1981年に中日に入団。来日の際は、わずか数千円の所持金と風呂敷包み1つで名古屋空港に降り立ったとして、出迎えた球団職員を驚かせた。
実家は貧しい農家で、契約金の半分は台北市に家族のマンションを購入するために使ったという。
「だから、自分で使えるお金はすぐになくなって…」
培われたハングリー精神は、郭源治の土台になったといっていい。
日本語はスナック直伝?
来日当初は日本語が話せず、投手コーチの指導が理解できなかった。
通訳がいなかったため、辞書を引きながらの独学で必死に日本語を覚えた。
男らしい容姿とは対照的に、どことなく女性的で優しく上品な言葉遣いで話す理由は、スナックのママに話し言葉を教わっていたから、なんて笑い話もある。
先発から炎のストッパーへ
切れのある150キロの速球を武器に、来日3年目の83年から4年連続2桁勝利をマーク。年俸も1億円を超え、先発完投型として確固たる地位を築いた。
「それなのにねーー」
87年、新しく指揮官となった星野仙一監督は、それまで抑えだった牛島和彦のトレード流出により、郭をストッパーに起用した。
「1番いい投手がエース。2番目がストッパー」という同監督の哲学に基づいての決断だった。
「最初は周りが反対していた。僕も聞いたよ。『なぜ僕なんですか』って。そうしたら『おまえしかおらん』と。あの監督にそう言われちゃったらね。僕の性格を見ていたんだろうね」
88年にリーグ優勝&MVP
抑え転向を受け入れた郭に対し、星野監督はマウンドで自らボールを渡す際、必ず闘争心を刺激するような言葉をかけていたという。
あまりの重責から登板中に自らタイムをかけ、一時ベンチに戻って気持ちを落ち着かせるなどのハプニングもあったが、「僕を操るのがうまい人だなと思った」。燃える男の熱いゲキにこたえながら成長し、炎のストッパーは誕生した。
88年は7勝6敗37セーブでリーグ優勝に貢献。同年のMVPに輝いている。
引退後は人気店オーナー
「台湾球界に貢献したい」との思いから、96年に中日を退団して故郷の台湾へ。99年に現役引退してからは日本に戻り、01年には名古屋市内に台湾料理店「郭源治 台南担仔麺」をオープンさせた。
何事にも真剣な郭らしく、一から経営を学び、料理人修行までしたというほどの力の入れよう。
本来なら、88年に交通事故で急死した実弟と一緒に現役引退後に経営したかった店。味は好評で、郭自らが店に立って各テーブルを楽しませていたことから、連日大盛況だった。
台湾プロ野球の中華職棒大連盟首席顧問に就任した13年に、「中途半端は嫌だから」と惜しまれながらも閉店した。現在は同職を辞しているが、台湾で選手育成に力を入れているという。
次男はラグビーから俳優へ
双子の息子である弟・創は幼少時代に野球を始めたものの、中学時代にラグビーに転向。愛知高から明大に進学し、トヨタ自動車でもプレーした。
7人制ラグビーの日本代表にも選ばれている。明大時代に、父親の郭が「創君、明治に入って頑張ってるよ。この前、スポーツ新聞にも載ったんだ」と酔客に自慢していた。なぜ野球ではなくラグビー?との問いかけに、「好きなことをやりなさい」が教育方針だったと話している。
その創は、故障などの影響で現役引退後はトヨタ自動車を退社して芸能界へ。役者の勉強を一から始め、芸能プロダクションのオーディションを受けたという。
憧れを求めて手に入れるため、ラグビー競技のように熱く、激しく展開していくドラマチックな人生は、父・郭源治の人生とも重なる。(砂田 友美)